新選組・組織編制時系列 新選組の役職は?時代別

新選組・軍行録
出典:多摩デジタル新選組資料館/新選組関連資料

渋沢栄一を主人公にしたNHK大河ドラマ「青天を衝け」で町田啓太さん演じる土方歳三は大人気。作品の中で土方歳三が最期を迎え、箱館戦争が終結したのちも、TVでは土方歳三特集が複数組まれ、プチブームが来ているように思われる。

土方歳三が戦死した時点で新選組も終焉した感はあるが、土方が亡くなった後も箱館戦争は続き、新選組は存続していた。そこで新選組の組織としての変遷をまとめてみた。

新選組は成り上がりの集団とよく言われるが、組織編制の変遷を追いかけていくと、組織としての栄枯盛衰がよくわかる。

初期

壬生浪士創設メンバー

文久三年三月十日、京都残留組は会津藩の容保にあてて、せめて将軍家茂が滞京している間だけでも護衛の役目につか せてほしいという嘆願書を彼らは提出した。 

嘆願書に書かれた名前は17名。

【組織図】

芹沢鴨、新見錦、平間重助、平山五郎、野口健二、粕谷新五郎、阿比留栄三郎、佐伯又三郎(現地加入)

近藤勇、井上源三郎、土方歳三、山南敬助、永倉新八、原田左之助、沖田総司、藤堂平助、斎藤一(現地加入)

上記17名に加えて

殿内義雄、家里次郎、根岸友山、遠藤丈庵、清水五一、神代仁之助、鈴木長蔵

が加わり24名が創設メンバーとなる。

文久三年三月十二日に会津藩お預かりが決定する。

文久三年五月ごろ

会津藩お預かり壬生浪士組

文久三年新選組組織図
文久三年の壬生浪士組組織図

この頃の新選組はまだ「壬生浪士組」のままだった。

勘定方が芹沢派の平間重助になっているのは、金を自由に使いたい芹沢派の思惑があったのだろうか。

勘定方も入れれば、役職付き15人に対して平隊士24名という、なんとも頭でっかちの組織になっている。

【組織図】

局長:芹沢鴨、近藤勇

副長:新見錦、土方歳三、山南敬助

勘定方:平間重助

副長助勤:井上源三郎、永倉新八、原田左之助、沖田総司、藤堂平助、斎藤一、平山五郎、野口健二、粕谷新五郎

平隊士:島田魁、松原忠司、川島勝司、他21名

※当時は会津藩の1局扱いだった。

文久三年九月

新選組誕生

文久三年新選組誕生時組織図
文久三年新選組誕生時組織図
文久三年八月十八日(1863年9月30日)壬生浪士組は会津藩から「新選組」の名を拝命する。

上の組織図は芹沢鴨が暗殺された九月十八日以降に作成されたものである。

特筆すべき点は、局長が近藤勇一人に成った点と、「副長」という役職があるのにも関わらず「総長」という役職が新たに出来、山南敬助が就任したことである。

「総長」という役職が、フローチャート上どこに位置すべきなのかはわかっていないが便宜上、局長の下と、副長の間に筆者が配置した。

現在の会社で言えば、部下のいない社長補佐とでもいうべき役職ではなかろうか。

外にも新設された役職に「諸士調役兼観察」というものがある。

諸士調役兼観察とは現代風に言えばスパイ、密偵の事である。

敵方を調べるだけではなく内部監査の役割も果たしており、規則に違反した隊士達を調べたり、脱走した隊士達の行方を捜すなどしていた。

アニメや漫画の捜索では省略されて、「観察方」と表現されることが多い。

「新選組観察方」といえば山崎丞がおなじみだか、この時期にはまだ山崎は入隊していない。

この年の年末に入隊してくる。

【組織図】

組長:近藤勇

総長:山南敬助

副長:土方歳三

副長助勤:井上源三郎、永倉新八、原田左之助、沖田総司、藤堂平助、斎藤一、尾形俊太郎、松原忠司、安藤早太郎

諸士調役兼観察:島田魁、川島勝司、林信太郎

勘定方:河合耆三郎

平隊士:約40名

元治元年十一月ごろ(1864年)

行軍録作成される

池田屋事件後の元治元年十月、新選組は江戸で隊士募集を行った。

総隊士数が70人を超えた頃、新選組は最初の行軍録を作成する。

注目すべき点は、十月の隊士募集で道場ごと参加した伊東甲子太郎である。

また同時期に多摩の試衛館から大石鍬次郎が加わっている。

小隊が8組作られ副長助勤がそれぞれの隊のリーダーになる。

伊東甲子太郎は新入隊士にも関わらず、いきなり二番組・組頭に抜擢されている。

【組織図】

一番組・組頭:沖田総司
二番組・組頭:伊東甲子太郎

三番組・組頭:井上源三郎

四番・組頭:斎藤一

五番組・組頭:尾形俊太郎

六番組・組頭:武田観柳斎

七番大砲組・組頭:松原忠司

八番大砲組・組頭:谷三十郎

小荷駄雑具方・組頭:原田左之助、河合耆三郎

行軍録に名前のない永倉新八:近藤と対立して謹慎中、藤堂平助:池田屋騒動のけがで江戸へ一時帰還、山南敬助:病気療養中

慶応元年三月(1865年)

新選組最盛期を迎える

慶応元年新選組組織図
慶応元年新選組組織図

新選組が最盛期を迎える慶応元年での役職が新選組ファンにはおなじみだろう。

ここでの組織編制で特筆すべきは伊東派参謀になったことだろう。

さらに副長助勤をリーダーとした10組を作成。

リーダーの下には福リーダーとして「伍長」が2名づつ配置された。
またある分野に秀でた隊士を「師範」と定め、隊士たちの強化を実施する、現在でいう教育制度も充実させた。

【組織図】
組長:近藤勇、
参謀:伊東甲子太郎
副長:土方歳三
一番組:沖田総司
二番組:永倉新八
三番組:斎藤一
四番:松原忠司
五番:武田観柳斎
六番:井上源三郎
七番:谷三十郎
八番藤堂平助
九番三木三郎
十番:原田左之助
勘定方河合耆三郎
諸士調役兼観察:島田魁、山崎丞、篠原泰之進、新井忠雄、服部武雄、芦谷昇、吉村貫一郎、尾形俊太郎
伍長:川島勝司ら20名
平隊士:100名
柔術師範:篠原秦之進、松原忠司、柳田三二郎
馬術師範:安富才助
槍術師範:谷三十郎
文学師範:伊東甲子太郎、武田観柳斎、司馬良作、尾形俊太郎、毛内有之助
この後は伊東派が脱退、武田観柳暗殺、谷三十郎、松原忠司の死、沖田の病などで組織編制は安定しない。また近藤が伊東派の銃弾に倒れ土方が局長代理を務めたり、甲陽鎮部隊など名前を変えたりで組織編制もめまぐるしく変わる。

撃剣師範:永倉新八、沖田総司、斎藤一、吉村貫一郎、池田小三郎、田中寅三、新井忠雄

慶応元年九月

慶応元年四月、土方歳三は江戸で新選組隊士の募集をおこない、五十四名の新隊士を獲得した。

隊員が大幅に増えたため土方は新選組の編成替を行う。

原本は不明で、小島鹿之助が異聞録に筆写したものが残っている。

行軍録の作成時期は、慶応元年九月と推定される。

新選組・軍行録
出典:多摩デジタル新選組資料館/新選組関連資料

明治二年箱館戦争終結時

新選組最後の組長

明治二年五月十八日、旧幕府軍最後の砦・函館の五稜郭が降伏し箱館戦争(戊辰戦争)は終結した。
実質の新選組のリーダーであった蝦夷島政府陸軍奉行並・土方歳三は明治二年五月十一日(1869年6月20日)に死亡。
誰かが長となって指揮をとる必要があったため、相馬主計が新選組・組長に就任した。
高松凌雲の書簡によると相馬が組長に就任したのは五月十五日。
京都からの新選組隊士のみ記載

【組織図】
組長:相馬主計
頭取改役 :島田魁
二分隊 嚮導役:中島登
四分隊 嚮導役横倉甚五郎
平隊士:佐々木一、蟻通勘吾 
弁天台場にいた新選組隊士達は相馬を組長として恭順の書状に名前を記す。相馬は新選組・組長として全責任を負い、伊東甲子太郎暗殺の容疑などで伊豆新島に流罪となる。生き残った彼らはそれぞれ明治という時代を生きた。

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