大石鍬次郎最期の地|東京都伝馬町牢屋敷跡

小伝馬町には大きな老座敷および処刑場があった。鈴ヶ森、小塚原と並ぶ江戸三大刑場だ。この小伝馬町で処刑されたのは吉田松陰や高野長英などが有名だが、新選組隊士もここで処刑されている。

大石鍬次郎小伝馬町にて斬首

大石鍬次郎は甲州で敗退したのち五兵衛新田で新選組から脱退、東京で隠れ暮らしていた。明治三年、元御霊衛士の阿部十郎の策にはまり加納鷲男宅で捕縛される。
捕縛時期はわからないが明治三年(1870)二月二十一日に大石の身柄が兵部省から刑部省へ送られた。
そののち薩摩藩の尋問に耐え兼ね、坂本龍馬、中岡慎太郎殺しを認めるものの、兵部省の調べ時には薩摩からの拷問を逃れるための虚言であり、実行犯は京都見回り組であると新選組の関与を指定している。

同じころ箱館で降伏した相馬主計、横倉甚五郎も兵部省に送られ小伝馬町に投獄されている。相馬と横倉も坂本殺しは見回り組だと主張し、見回り組の今井信郎もそれを認めていた。
坂本龍馬殺しは県議は晴れたものの伊東甲子太郎殺しの罪で十月十日、斬首と決まる。

明治三年十月十日、大石鍬次郎の処刑は午後二時からの予定だった。しかしその前に処刑が行われる予定だった上田立夫(横井小楠暗殺の罪)が、親類の扱われ方などを教えてもらえないと刑に服すことはできないと騒ぎはじまた。これに慌てた役人たちは上田の処刑を後にして大石鍬次郎の処刑を先にやろうとする。
 すると大石は大石で「伊東甲子太郎暗殺は隊の命令であって個人の罪ではない」と申し立てを始めた。役人たちはまたしても動揺するものの四時には刑は執行された。小伝馬町で斬首された大石の首は品川の鈴ヶ森で梟首された。息子の雷太郎がそう認識している。

伝馬町刑場跡

牢座敷には形場も併設されており大石鍬次郎はここで斬首された。現在跡地には大安楽寺がたち処刑された魂を慰めている。
大安楽寺の延命地蔵と刑場跡の碑
大安楽寺の延命地蔵と刑場跡の碑

伝馬町刑場跡所在地

〒103-0001 東京都中央区日本橋小伝馬町3−5 

伝馬町牢座敷跡

現在の央区日本橋小伝馬町3~5番を占めていたといわれる伝馬町牢座敷。面積は8,637平方mというから巨大だ。現在牢座敷跡は十思公園、展示館となっており市民の憩いの場となっている。公園内には江戸中に時間を知らせる「時の鐘」、牢座敷に使われた石、吉田松陰最期の地の記念碑など歴史を感じさせる遺物が残っている。
現在は十思公園
十思公園となっている牢座敷跡

発掘された座敷牢の名残
発掘された座敷牢の名残

吉田松陰最期の地の記念碑
吉田松陰最期の地の記念碑

また公園の隣の十思スクエアの中に入ると牢座敷のミニチュアやパネル展示を見る事が出来る。ミニチュアは精巧に再現されており、大石が斬首された刑場も再現されている。
伝馬町に投獄された有名人は、吉田松陰、高野長英、橋本左内、頼三樹三郎、渡辺崋山、八百屋お七、鼠小僧、平賀源内などそうそうたるメンバーがいる。新選組最後の局長相馬主計、横倉甚五郎も処刑こそまぬかれたものの、この伝馬町に投獄されていた。
牢座敷のミニチュア

伝馬町牢座敷跡所在地

〒103-0001 東京都中央区日本橋小伝馬町5

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