山南敬助はじめ大勢の隊士が眠る|京都府光縁寺

光縁寺は新選組の最初の屯所・八木邸、前川邸のすぐ近くにある。新選組隊士の墓や関係者の墓があり、ファンとしては押さえておきたい重要スポットである。
光縁寺
光縁寺

光縁寺と新選組

当寺の寺の門近くに新選組の馬小屋があり、隊士たちは毎日のように門前を往来していた。光縁寺と新選組とで縁ができたのは距離が近かったからというだけではない。寺の山門の瓦に記されていた家紋「丸に三つ葉立葵」が新選組総長・山南敬助の家紋と同じであった。そこに山南は目を止める。また、当時の住職、22世の良誉上人は、年齢も山南と同じだった。二人の間には親交が生まれ、隊務で犠牲になった隊士や関係者の供養をお願いするようになったという。山南自身も光縁寺に眠っている。

山南敬助の墓

山南敬助(さんなん けいすけ)は江戸試衛館時代からの仲間。新選組では総長を務めた。しかし、元治二年二月(1865年)、山南は隊を脱走した。当時すでに脱走禁止の隊規があり、捕まれば切腹は必至であった。近藤と土方は沖田総司を追っ手として差し向けた。追っ手は沖田のみだった。山南が弟のように可愛がっていた沖田であれば、山南も抵抗しないであろうという土方の思惑だったともいわれているが、追手が一人しかいないということも不自然だ。しかし本当の思惑は当人たちしかわからない。大津宿で沖田に追いつかれた山南はそこで捕縛され、新選組屯所に連れ戻された。

隊脱走の原因は諸説あるが謎のままだ。

元治二年二月二十三日(1865年3月20日)前川邸にて切腹。山南の希望により介錯は沖田が務めた。
山南の切腹を近藤は「浅野内匠頭でも、こう見事にはあい果てまい」と賞賛した。
伊東は、山南の死を悼んで4首を詠んだ。その2首が以下にある

春風に 吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまれるかな
吹く風に しぼまんよりも 山桜 散りてあとなき 花ぞ勇まし
光縁寺・山南敬助の墓
山南敬助の墓
新選組総長・山南敬助
享年33歳。

沖田家縁者の墓

光縁寺には「沖田家縁者の墓」がある。墓石には戒名しか刻まれておらず本名がわからないが戒名から女性ということだけは判明している。戒名「真明院照誉貞相大姉」
沖田家縁者の墓
正体不明であるがゆえに想像力が掻き立てられ、沖田総司の悲恋だったのではないか等様々な物語が生まれている。

大石鍬次郎の弟・大石造酒蔵の墓

大石造酒蔵の墓
大石造酒蔵の墓

山南敬助の墓石の向かって左隣に「大石造酒蔵源守仲墓」と刻まれた墓石がある。新選組諸士観察方・大石鍬次郎の弟だ。
大石鍬次郎の弟・造酒蔵(みきぞう)は新選組隊士ではない。ではなぜここに彼の墓があるのか。子母澤寛の【新選組物語・人斬り鍬次郎】によれば、
(かなりざっくり。)
慶応二年二月五日の夜、大石は松原通り東洞院で広島藩士と口論になり殺害。屯所へ戻ると門前で今井裕次郎にあう。今井は祇園石段の下で人を斬ってきたという。その夜はお互い別々の場所で武勇伝に花を咲かせるが、鍬次郎が厠へ立った時、今井の話が聞こえてきた。
「貴様は誰だというんだな、そこで俺が名乗ると、新選組か?といつてひどく驚いたッけが、それから。俺は、大、大、大石造酒(おおいしみき)・・つてな、ここまでいつて息が切れたよ」という話が聞こえてくる。
 大石は今井の胸を鷲頭神にし「今井、君の殺したのは大石造酒蔵(おおいしみきぞう)ではないか」と詰め寄る。
 今井は美樹像とは聞いていないというが、大石は今井の横顔を殴りつけ「うぬ、俺の兄*を殺したな」といい部屋を出て行ったという。(*実際は弟)
自分の部屋へ戻り刀をとった大石は今井に決闘を申し込んだ。しかし隊規により組員同志の私闘は許されていない。原田左之助が止め、近藤が妾宅から戻り仲裁に入った。

近藤は、あくまでも雌雄を決するのかと大石に尋ねて、それ以上何も言わずただ煙草を吸っていたという。
やがて朝になってくると土方が入ってきて、今井は大石の弟と知って切ったわけではないと諭す。大石が「でも」というと「でもも糞もない、私の関係を以って徒らに新選組の隊士に争を挑むなら、今井に代わって俺が相手をしよう、どうだ」とつっぱねた。
困り果てた大石をちらりと見た近藤は土方に雨を静かに聞いたらどうだと言い残して、部屋を出て行ってしまったという。
 渋い対応の近藤、なんとしてでも隊士同士の争いをやめさせようとする土方、どちらもやり方は違えどいい話である。ところが、この時近藤は広島出張で不在である。
つまりは「雨を静かに聞いたらどうだ」などと云う風流なセリフは子母澤のフィクションなのだ。
今井に斬られたというのも事実かどうか怪しくなってくるが、とはいえ大石造酒蔵は実際に京都で亡くなっている。

新選組隊士の墓

大石造酒蔵の墓石の左隣に合同墓がある
光縁寺 隊士合同墓
光縁寺 隊士合同墓

四番隊組長兼柔術師範・松原忠司 慶応元年9月1日(1865年10月20日)死去 愛人と心中
平隊士・桜井勇之進 慶応元年十二月十二日死去(1866年1月28日)死去 詳細不明
平隊士・小川信太郎 慶応二年二月十八日(1866年4月3日)死去 詳細不明
平隊士・市橋鎌吉 慶応二年十月七日(1866年11月13日)死去 詳細不明
平隊士・田内 知(慶応三年一月十日(1867年2月14日)死去 愛人宅の押し入れに隠れていたところ愛人の夫に切りつけられ、近所に助けを求める。其の情けない行為が士道不覚悟として切腹を命じられる。

施山多喜人(慶応元年6月21日) 商家の婦人と密通の為切腹
石川三郎(慶応元年6月21日)、 施山の共犯ということで切腹
河合耆三郎(慶応2年2月12日) 五十両福江不明の責任を負って切腹
柴田彦三郎(慶応2年6月23日) 勝手に金策をしたとして切腹
田中寅三(慶応3年4月15日) 御陵衛士二加わろうとするも拒絶され本願寺に隠れるも見つかり切腹
矢口健一郎慶応3年4月29日) 詳細不明

以下5名は御霊衛士に加わろうとした際に会津藩邸で自刃
富川十郎慶応3年6月14日)
中村五郎(慶応3年6月14日)
佐野七五三之助(慶応3年6月14日)
茨木司(慶応3年6月14日)
加藤羆(慶応3年6月14日)

途中でめんどくさくなり西暦を書くのをやめてしまった・・。
この1合同墓だけでもかなりの量の隊士が切腹している。

光縁寺所在地

〒600-8389 京都府京都市下京区綾小路通大宮西入四条大宮町35



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