近藤勇の生家と墓所|東京都三鷹

新選組局長・近藤勇は東京の三鷹で生まれ育った。三鷹には歩ける距離に近藤勇ゆかりの土地が残っている。

近藤勇生家  

のちの新選組局長・近藤勇となる宮川勝田は現在の東京都三鷹市で生まれた。

近藤勇 生家
後の新選組局長となる近藤勇は1834年(天保5年)に多摩郡上石原村辻の宮川久次郎の三男として生まれた。国道110号線に面して解説の看板と記念の塔が建っている。生家は残っていないが跡地、近藤勇が生まれたときに産湯として使われたであろう井戸は健在。井戸の近くには小さな神社がある。その名も近藤神社。近藤さん、マジ神。

産湯に使われた井戸

近藤神社

近藤勇生家・所在地

東京都調布市野水1-6-8

近藤勇墓所

東京都三鷹にある龍源寺は臨済宗妙心寺派のお寺である。つまり禅寺である。

龍源寺 門前
龍源寺 本堂


近藤勇生家あとから東側に110号線をいくと徒歩5分程度で龍源寺が見えてくる。寺の門の前には「近藤勇墓所」の文字。 近藤勇の墓所は三か所ある。会津若松の天寧寺、板橋の近藤勇墓所(供養塔)、そしてここ三鷹の龍源寺。この龍源寺は近藤勇の実家である宮川家の菩提寺だった。慶応4年(1868)4月25日近藤勇は板橋の処刑場で斬首される。翌々日の4月27日、近藤勇の一人娘たまの婿であり勇の甥でもあった近藤勇五郎や勇の兄・宮川音五郎、天然理心流の門徒らで板橋に埋められた勇の死体を掘り起こす。首は見つからなかったが、胴体を掘り起こし夜中に板橋から三鷹まで運び、ここ龍源寺に埋葬したと言われている。その後、明治9年に永倉新八や松本良順らにより、近藤勇と土方歳三の供養碑が板橋に建てられ、のちに、近藤勇の胴体は板橋へ改葬されたとのこと。土方歳三始め戦死した新選組の隊士の多くが遺体のない墓で弔われているなか、本物の近藤勇の体が眠っている。 ※明治になって永倉新八により板橋へ改葬されたという説もある。

近藤勇墓所と辞世の句碑
近藤勇墓所と辞世の句碑

山門をくぐると「史跡 近藤勇の墓」の石碑、続いて近藤勇の胸像。そして「近藤偉様百年祭」の石碑。墓所は本堂の左側から入った裏側に位置する。

墓石には「貫天殿純誠義大居士」の字。
会津の松平容保公から送られた、最高級の戒名が刻まれている。
墓の隣には辞世の句が刻まれた石碑が建つ。
「孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節 睢陽千古是吾儔」
(味方がいなくなって援軍も無く捕えられたとしても、義に生きた自分には後悔は無いのだから、快く電光三尺の刃を受けようじゃないか)みたいな意味だった気がする(うろ覚え)。

新選組局長 近藤勇 慶応4年4月25日没  享年35歳(満33歳)

近藤勇胸像

近藤勇墓所所在地

東京都三鷹市大沢6-3-11

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