伊東甲子太郎、三樹三郎ゆかりの土地||新選組ゆかりの地 茨城県かすみがうら市・石岡市

 新選組参謀・伊東甲子太郎、その弟で9番隊組長・三樹三郎は志筑藩(現・茨城県かすみがうら市)で生まれ育った。
 兄の伊東甲子太郎は天保5年12月3日(1835年1月1日)、弟の三樹三郎は天保8年7月15日(1837年8月15日)に志筑藩・藩士(郷目付)鈴木専右衛門忠明の子として生まれた。

兄の鈴木大蔵(伊東甲子太郎)は水戸へ遊学するまでこの地で育ち、弟の鈴木多門(三樹三郎)は新選組に加入するまでこの地にいた。

京都ほどではないがかすみがうら市には彼らの痕跡が残っている。

新選組初代局長・芹沢鴨の出身地は隣の行方市にある。

かすみがうら市歴史博物館


博物館の外観

 霞ヶ浦のすぐ近くにある歴史博物館はゆかりの地ではないが伊東甲子太郎の資料がある。外観は城のようになっているがもともとあった城を復元したわけではなく博物館にするために作られた建物。

注目1:新発見伊東甲子太郎の直筆手紙

 注目すべきは近年新たに発見されたという伊東の手紙だ。
今まで伊東の直筆資料は手紙2点のみであったが新たに直筆資料3点目が発見された。博物館の資料からはどういった経緯で発見されたのかは不明だ。

===以下博物館の説明から引用====
今回の史料は、 伊東甲子太郎が慶応3年(1867) 8月8日に公卿である柳原光愛と老中板倉勝静に提出した「長州藩克典建言書」の草稿史料です。この史料は、公卿『中山忠能履歴資料』や本願寺侍臣西村兼文『新撰組始末記』 などにみられますが、直筆のものはありませ んでした。 つまり、今回のものは新発見なのです。「長州藩寛典建言書」は、伊東甲子太郎をリーダーとする高台寺 (伊東と共に新選組の別 グループとなった者たち)によって作成されたもので、 内容は長州処分を寛大な処置 (政治の 舞台に戻させること)にしなければ内乱となり、 それを利用して外国の介入(侵略)を招きかねないし、天皇を中心として国家が一和(統一する体制)が図られないというものです。 伊東甲子太郎は、この建言書を朝廷と幕府陣営に提出することで、間もなく実施される大政奉還後の日本の政治組織と基本理念(一和) のための事前準備していたのです。
===引用ここまで===

 館内は撮影禁止のため、画像を掲載することはできないが、個人的に面白いと感じたのは建言書の最後に書かれた高台寺党の署名である。

====手紙の巻末引用====
卯八月  伊東甲子太郎
斎藤 一
藤堂平助
三樹三郎
荒井忠雄 篠原泰之進 服部武雄 加納鷲雄 毛内有之介 橋本会助 以下姓名署之
右は元新選組当時難局山稜衛士二相成洛東高台寺山内月真院二在仕候
=======引用ここまで===

 伊東の次に斎藤一の名前がある。
藤堂や弟の三樹三郎を差し置いて、である。
つまり斎藤は高台寺党のナンバー2の地位にあったのではなかろうか。
新選組の間者(スパイ)として同行していた斎藤だが、高台寺の中では、または伊東からはかなり頼りにされていたのではないだろうか。

注目2:金澤家に伝わる刀

 江戸深川中川町の北辰一刀流剣術伊東道場に入門した鈴木大蔵(伊東甲子太郎)は主の伊東誠一郎に気に入られ婿養子となり伊東大蔵と改名する。
伊東大蔵の住み込み門人として内海二郎、金澤鎗次郎らの名前がある。
金澤鎗次郎は茨城県の教育者である。
資料が少なく金澤鎗次郎が何を成したのかはわからなかったが由緒ある家の様で、その金澤家に伝わる刀・二振りが展示されている。

かすみがうら市歴史博物館所在地

〒300-0214 茨城県かすみがうら市坂1029
トイレ、駐車場あり

伊東甲子太郎顕彰碑


伊東甲子太郎顕彰碑

 2020年11月19日「伊東甲子太郎顕彰碑」の除幕式が行われた。石碑は住民有志14人でつくる「中志筑史源保全の会」が、市のまちづくりファンドを活用して建てた。碑には漢学者、塩谷温氏が甲子太郎の事績を漢文で記した書を刻んだ。石碑の隣には伊東甲子太郎についての解説板が建つ。顕彰碑は志筑城跡に建っている。
 近くの長興寺は市指定の有形文化財になっており、天狗党首領・武田耕雲斎の墓があるという。無縁仏になってしまったのでどこが墓かはわかっていない。

伊東甲子太郎顕彰碑所在地

〒315-0075 茨城県かすみがうら市中志筑
トイレ無し、城跡は広場になっているので駐車可能。長興寺も徒歩で行ける。
詳細な番地はない為このあたりを目指していくと手書きの誘導看板が見えてくる。

東耀寺

 茨城県石岡市にある東耀寺(とうようじ)の宗派は天台宗山門派、本尊は阿弥陀如来である。
この寺には新選組の「ミキティー」こと「三樹三郎(みきさぶろう)」の墓がある。
三樹三郎は兄が暗殺され高台寺党が離散した後、薩摩藩に保護され、鳥羽伏見、戊辰戦争を新政府側として戦った。
油小路の変以降、近藤勇の命を狙ったり、永倉新八と東京ですれ違ってみたり、赤報隊となってみたりなんやかんやいろいろあったが余生は茨城に戻り石岡で余生を過ごした。
長生きしているうえ、石岡で晩年を過ごしているので石岡に三樹三郎ゆかりの土地が沢山ありそうだが、兄の人生が劇的過ぎたためか、彼のゆかりの地はここ東耀寺しかない。
とくに案内板や解説板もない。
墓は東耀寺(とうようじ)の墓地、「鈴木家」の一角の中にある。「鈴木 忠良」が三樹三郎の晩年の名前である。


1919年、老衰のため死去。享年83。没日不明。

東耀寺所在地

〒315-0017 茨城県石岡市若宮1丁目1-35
山門をくぐれば本堂の前に駐車可能だが道路幅が狭いため、車で入るのがためらわれた場合は常陸国府跡に駐車場がある。

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