天然理心流「試衛館」跡地|東京都新宿区市ヶ谷

天然理心流の江戸道場「試衛館」は若き日の近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助が腕を磨いた場所である。彼らはのちの新選組の主要メンバーとなっていく。試衛館のメンバーたちが新選組の核となり組織を大きくしていった。

試衛館跡
試衛館跡地

近藤勇と天然理心流試衛館

保5年(1834)のちの新選組局長近藤勇こと宮川勝五郎が生まれた。

嘉永元年(1848)11月11日宮川勝五郎は兄とともに天然理心流に入門する。時に勝五郎15歳。 嘉永2年(1849)6月天然理心流目録を許された勝五郎は同年10月19日に近藤周助の養子となった。近藤周助は江戸牛込甲良屋敷地面内に試衛館を構えており、宮川勝五郎改め近藤勇は試衛館の後継ぎとなるべく八王子から江戸牛込へと移り住む。 安政7年(1860)近藤勇・松井ツネを娶る 松井ツネは一橋家家臣・松井八十五郎の娘である。 文久2年(1862)長女・タマが誕生する。

続々と集うのちの新選組幹部達

嘉永4年(1851)土方歳三が天然理心流に入門する。また定かではないが沖田総司も同じ年に入門していると思われる。安政3年(1856)に近藤と沖田が調布へ出稽古に言った記録が残っているので沖田はすでに入門していたことになる。 文政元年(1861)8月27日六所宮において近藤勇4代目襲名披露の野試合が行われる。野試合とは門徒たちを東軍と西軍に分け軍隊にみたてて模擬戦を行うものである。この時の佐藤家文書の中に「後陣玄武 山南敬助」と書かれている。のちの新選組総長・山南敬助はこの時すでに天然理心流に合流していた。 文献で確認できる限り、山南は井上源三郎、近藤勇、土方歳三、沖田総司の次に天然理心流に合流していることになる。また浪士組への参加が決まった際も山南は沖田とともに日野の小島家を訪れている。おそらく江戸出発のあいさつと思われる。山南は江戸で天然理心流入りをしているがおそらく野試合や出稽古などで八王子・日野方面とかかわりが深くなっていったのだろう。 一方で永倉新八、原田左之助、藤堂平助は小島家や佐藤家の文書にはこの段階では名が出てこない。いつごろ試衛館に出入りするようになったのは定かではないが安政ごろではないかといわれている。 近藤たちが京へと発ったのちは佐藤彦五郎が管理を任せれ慶応3年まで存続したとされている。 現在ではアパートに囲まれた一角にひっそりと神社と説明板が建っているのみである。

試衛館跡地
試衛館跡に建つ神社

試衛館跡所在地

〒162-0061 東京都新宿区市谷柳町25 新選組関連史跡を地図から探す>>


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