小石川伝通院(傳通院)は文京区にある浄土宗の寺。慶長7年(1602)に徳川家康の生母於大の方(おだいのかた)逝去した際、傳通院を菩提寺とした。その後、三代将軍家光公の次男、亀松が葬られ、以来徳川家の外護を賜り、諸堂伽藍が整えられた。
小石川伝通院 |
伝通院と浪士組の結成
新選組の前身となった浪士組は清河八郎の案によって成った。文久二年(1862年)に江戸幕府十四代代将軍・徳川家茂は文久三年(1863年)将軍上洛*をおこなうためその警護に当たるものを身分問わず市井から広く募った。
文久三年二月四日、志願者らは小石川伝通院に集合し編成や諸注意が発表された。
近藤ら試衛館の面々が組み入れられた三番隊には元天狗党の芹沢鴨とその一派がいた。
三番隊一 - 芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助ほか
三番隊二- 新見錦・阿比類鋭三郎・井上源三郎・沖田林太郎ほか
近藤勇は試衛館の館長だったためか、先回りして浪士達の宿割りをする道中先番宿割に任命される。芹沢鴨は天狗党という経歴もあってか道中、浪士組取締役付きに任命された。
文久三年(1863年)二月八日、浪士組は再び小石川伝通院に集合しこの地から中山道を通って上洛。同月23日に京都に到着。新徳寺、八木邸、南部邸、前川邸などに分宿した。
江戸から京までわずか15日間の行程であった。
清河八郎墓所
伝通院には千姫(徳川秀忠の二女)や於大の方(徳川家康生母)の墓もあるが、浪士組の発案者、清河八郎の墓もある。
清河(清川)八郎は出羽国田川郡清川村(現・山形県東田川郡庄内町)で郷士の子として生まれる。尊王攘夷論者として育った清川は山岡鉄舟を通じて浪士組の結成を上書。表向きは京都での将軍警護であったが清川の目的は浪士組を率いての攘夷・倒幕であった。
清河八郎墓所 |
浪士組の京都到着後、清川は新徳寺に組員を集めて、浪士組の本当の目的は攘夷にあると説く。ここで反発した芹沢、近藤一派と袂を分かつこととなる。一部の組員たちと別れた清河は朝廷に上表文を提出し勅諚を賜る。この動きを良しとしない幕府は浪士組の江戸帰還を命令。3月13日に京を発つ。ひと月にも満たない在京であった。この一件で幕府から危険人物とみなされた清河は同年4月、幕府の資格である佐々木只三郎などによって麻布赤羽橋で暗殺される。
清河八郎 1863年4月13日没 享年34歳
伝通院所在地
〒112-0002 文京区小石川3-14-6
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