会津若松城’(鶴ヶ城)|福島県会津若松市

会津若松城、通称鶴ヶ城は五層の天守閣に、西出丸、北出丸を備えた東北最大、難攻不落の名城として知られる。
現在天守閣内は博物館になっており若松城の歴史や戊辰戦争の経緯を知ることができる。

会津若松城籠城戦

母成峠の戦いに敗北したのち、滝沢本陣にいた松平容保は若松城へ戻り籠城戦による徹底抗戦を決意。
慶応四年八月二十三日(1868年10月8日)、板垣退助、伊地知正治を擁する新政府軍は会津若松城攻略めを開始。
北出丸への攻撃で、迅衝隊大軍監、各隊長ら土佐藩側将兵の死傷者が続出する。
上空から見ると現在テニスコートになっている場所は伏兵廓と呼ばれ、北出丸を攻撃してきた敵を背後から攻撃するための施設である。
それに気が付くことのできなかった新政府軍は、北出丸を攻撃し背後を討たれた。
会津若松城籠城戦
会津若松城籠城戦
開始直前こそ前線した会津だったは徐々に新政府軍に追い詰められていく。
新政府軍は当時最新とされた四斤砲(よんきんほう)という砲弾、焼弾という球形砲弾を若松城にさんざん打ち込んだ。
NHK大河ドラマ「八重の桜」で山本八重も男装し共に戦っていたが、八重の外にも婦女子たちも共に城へ入り砲弾を再利用したり、燃弾が燃える前に消火活動を行うなどし共に戦った。
新選組を含む会津軍はただ城の中で攻撃に耐えていただけではなく、城外戦も繰り広げていた。
斎藤一率いる会津新選組は喜多方方面で交戦している。
家老の萱野権兵衛は神指高久に布陣し城内への補給や城外戦を指揮していた。
しかし頼みの米沢藩から援軍は断られた上に降伏をすすめられるなどし、孤立無援状態を悟った容保は降伏を決意する。

明治元年九月二十二日(1868年11月6日)、若松城に白旗が掲げられる。1ヶ月に渡る籠城戦は終わった。
周囲の山々の紅葉が見事な、冬直前の出来事だった。
会津城下甲賀町で降伏儀式が行われ、新政府軍から軍監の中村半次郎、軍曹の山県小太郎(元・豊後岡藩脱藩志士)が全権代表として降伏文書を受け取り、新政府軍に城を明け渡した。
会津新選組隊長・山口次郎(斎藤一)の足跡は九月五日の如来堂の戦い以後、降伏までわかってはいないが、恐らく会津市外でゲリラ戦を続けていたと思われる。降伏時の名簿に一瀬伝八とある。

よく、新暦か旧暦表記か、で別れるが個人的には旧暦を新暦に換算した方が当時の季節感などを感じることができるので良いと考えている。

なぜ若松城の瓦は赤いのか

鶴ヶ城の屋根は平成23年に「赤瓦」へのふき替えが完了し幕末当時の姿を再現している。ではなぜ赤い瓦なのだろうか。
発掘調査で黒い燻し瓦と赤い瓦が出土した。
元々は黒い瓦を使用していたが保科氏の時に17世紀半ばに赤い瓦に吹き替えられその後幕末まで赤い瓦が使用されていた。
会津塗(氏郷氏が)近畿から職人を連れてきた。良質な木材や漆に恵まれていた為漆塗りが発展してきた。漆塗りだけでなく築城技術や焼き物の技術も西から入ってきたと考えられている。鶴ヶ城の瓦は会津美里町で焼かれたと思われている。(宗像窯)
黒い瓦には釉薬は使用されていなかったが、赤い瓦には鉄分を多く含んだ釉薬が使用されていた。そのため赤い瓦が出来上がった。
雪深い会津。雪の水分が釉薬のない瓦にしみ込むとわれてしまう。そのため寒さに強い瓦にするために釉薬を使用した瓦を造るようになった。

会津若松城基本情報

所在地:福島県会津若松市追手町1-1
電話番号:0242-27-4005(鶴ヶ城管理事務所)
営業時間:天守閣への入場8:30~17:00(入場締め切りは16:30)
定休日/休業日:無休
鶴ヶ城天守閣入場料
<個人> 大人410円(天守閣・麟閣共通券 大人520円) 小中学生150円
<団体 30~99名> 大人360円(天守閣・麟閣共通券 大人460円) 小中学生135円
<団体 100名以上> 大人320円(天守閣・麟閣共通券 大人410円) 小中学生120円
駐車場 普通車360台(有料)


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