称名寺~新選組最後の屯所|北海道函館市

称名寺~新選組最後の屯所~|北海道函館市
土方歳三および新選組隊士4名供養碑

称名寺

称名寺(しょうみょうじ)は函館市内では高龍寺に次ぐ歴史がある。

箱館奉行交代の時には仮本陣として利用され、開港当初はイギリスやフランスの仮領事館になり、箱館戦争時には新選組の屯所が置かれた。

境内には署名人の墓や墓碑が沢山ある。

初代箱館館主・河野政通の供養碑、江戸時代にロシアに渡った豪商・高田屋嘉兵衛の顕彰碑、国内初の気象観測所を開設した福士成豊、日魯漁業創設者の堤清六、日本球界の至宝として知られる久慈次郎などがある。

称名寺は箱館戦争当時は現在の函館市大町4-6に位置していたが、明治12年12月に起こった大火により焼失、その後行われた市区改正で現在地の函館市舟見町に移転した。

土方歳三の戒名はこの称名寺と隣にある実行寺から出されている。

広長印釈義操 土方歳三事

是ハ 箱館 派箱館御坊 乗玄寺寺内納涼時建之 箱館浄土宗称名寺ニ

歳進院殿誠山義豊大居士 石碑有之鴻池手代 大和屋友次郎建之

五月十一日 石田出生 土方歳三殿

北海道函館称名寺
称名寺

称名寺と新選組

函館湾から坂を上がった元町・函館山エリアに位置している称名寺は新選組の最期の屯所となった寺である。

慶応四年十月三十日、新選組は箱館市中の取り締まりを命じられて箱館本陣に入る。

この本人は五稜郭の事ではなく屯所の事をさしているといわれており、すなわち称名寺の事をさしている。

高幡不動過去帳によると大和屋裕次郎によって称名寺に土方歳三の墓碑が建立されたとあるが、度重なる火事の為か、現存しない。

宮古湾開戦で死亡した野村利三郎などの墓があったがこちらも現存しない。

墓地台帳には次のように書かれている。

無縁の碑 二基

栗原仙之助 糟屋十郎 小林幸次郎 野村義時之墓

この野村義時というのが野村利三郎の事である。

野村利三郎皆も尾の義時 行年二十六

 元濃州大垣藩ナリ。於京地二新選組工加入シ勤功広多 ジ。生質剛直ニシテ好酒、事二臨ンテ撓マズ一巳ノ英雄 也。 后チ夷島二渡り巳ノ三月廿五日、四天艦二乗シテ南 部桑ヶ嵜港ニ到り、甲鉄艦乗掛ニ接戦二及プノ時、敵艦 二乗移り四方二当テ奮激突戦シ、終二甲鉄艦中二花々敷 討死セリ。敵味方モ借マヌ者ゾ無カリケリ。 筥館称名寺二憤墓ヲ残ス。
『幕末新撰組記念巻』


現在はこの4名の墓は消失してしまっているが、「土方歳三および新選組隊士4名供養碑」が建立されている。


明治二年五月十一日

歳進院殿誠山義豊大居士 位

土方歳三

野村義時 栗原仙之助 糟屋十郎 小林幸次郎


供養碑の隣にはお供え処設けられており、遺影と「誠」の扇子が飾られている。

ノートもあり訪問者が記名や熱い思いを書く事が出来る。


土方歳三供養碑
土方歳三と新選組隊士供養碑

称名寺 新選組最後の屯所
供養碑の隣にあるお供えどころ

本道の裏側から墓地へ行く事が出来る。
函館山縦走の「観音コース」の一部となっており、階段を上がっていくと函館山三十三観音の内三十三番目の観音様に会える。
観音様の位置からは箱館湾が一望できる。
新選組は箱館戦争の終盤、弁天台場へ行く前は函館山一帯で戦闘をしていたので、隊士達と同じ景色を見ていると思うと感慨深いものがある。
函館湾に居並ぶ新政府軍の艦隊を見たとき隊士達は何を思ったのだろうか。

称名寺~新選組最後の屯所
三十三番目の観音様

称名寺~新選組最後の屯所
観音様から見た箱館湾

元々称名寺があった大町には「屯所の庵」という宿と、歴史を語る案内柱が立っている。


アクセス

所在地:北海道函館市船見町18-14

電話番号:0138-23-0574

開館時間:9:00~16:00

休館日:無し

料金:無料

アクセス:

電車:函館市電5系統「函館どつく前駅」下車、とほ8分(600m)

バス:「称名寺通」バス停 下車 徒歩1分

駐車場:無料駐車場あり(30台)

参考文献

 

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