土方歳三、斎藤一・母成峠の戦い|福島県会津若松市

母成峠古戦場跡|福島県
母成峠古戦場跡

新選組局長・近藤勇が流山で捕縛されても新選組の戦いは終わらなかった。
処刑された近藤、宇都宮で怪我を負った土方歳三に代わり、会津新選組の組長を務めたのは、新選組副長助勤・斎藤一(山口次郎)だった。

母成峠の戦いとは

戊辰戦争の一つ、会津戦争の中で最大となった戦いの事である
慶応四年八月十九日(1868年10月4日) 新選組は大鳥圭介の伝習隊、田中源真率いる会津藩兵と共に現在の県境にある母成峠の守備に就く。

宇都宮攻城戦で怪我を負い、離脱していた土方歳三も戦線復帰を果たすが、新選組として復帰したのではなく、旧幕府軍・参謀として復帰している為、新選組組長は引き続き斎藤一だったと考えられる。

板垣退助・伊地知正治率いる新選府軍は、白河小峰城を落とし、会津の隣の藩、二本松藩をも落とし会津に攻め入ってくる。

母成峠の布陣は萩岡に第一台場、中軍山に第二台場、峠の頂上に第三台場をおき、新選組は伝習隊と共に中軍山に布陣した。

東軍の兵力は合計800人だったという。

会津藩は二本松街道からの攻撃を想定していたが、新政府軍は濃霧にまぎれ混成軍の背後から攻撃を仕掛けてきた。

その数、数千

会津軍は壊滅状態に陥り、新選組は木下巌、千田兵衛、鈴木錬三郎、小堀誠一郎、漢一朗、加藤定吉ら6人が戦死した。

※新政府軍の数は諸説あり。3,000とも7,000ともいわれている。

戦死者は新政府軍、会津軍合わせて104名。

新政府軍から敗走した新撰組は猪苗代城(亀が城)まで後退した。

母成峠古戦場跡

猪苗代湖の北側、安達太良山の裾野にある母成峠防塁は会津戦争のために作られたわけではなく、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの前に上杉景勝によって築かれた。

元々あった防塁を活用したのだ。

現在は母成グリーンラインが通っており、頂上には駐車場がある。

慰霊碑と防塁までの地図が置かれ、子の慰霊碑の前で年に一度慰霊祭が行われている。


母成峠古戦場の碑
峠頂上の駐車場から北側にある階段を上って山の中に入っていくと、塹壕、土塁、砲台の跡が今も残っている。
土塁沿いを歩いていくと母成グリーンロードにぶつかるので、道を超えて逆側へ渡りさらに林の中を行くと砲台場がある。
砲台場からは谷になっており、向かってくるであろう新政府軍を上から攻撃するには絶好の位置であった。
母成峠の戦い塹壕・土塁
母成峠の戦い塹壕・土塁
母成峠の戦い砲台場
母成峠の戦い砲台場
母成峠古戦場跡地
母成峠古戦場跡地

母成峠古戦場跡地所在地

福島県耶麻郡猪苗代町蚕養

戊辰戦争東軍殉難者慰霊碑

母成峠古戦場から750m程会津側に下ったところに戊辰戦争東軍殉難者慰霊碑がある。

母成峠の戦死者は東軍、西軍合わせて104余名お言われておりそのほとんどが東軍だったと思われる。

しかし西軍は東軍の戦死者の埋葬を固く禁じた。

東軍の遺体は放置されていたが、見かねた近隣住民が西軍の眼を盗み、遺体を集めて峠に埋葬した。

極秘で行われたため、記録も無く、場所もわからなくなっていたが、昭和53年に猪苗代地方史研究会の手によって発見され、子孫を中心として母成弔霊義会を結成し毎年慰霊祭を執り行ってきた。

昭和57年には東軍殉難者慰霊碑が建設され後世に歴史を語り継ぐ場となっている。

戊辰戦争東軍殉難者慰霊碑
戊辰戦争東軍殉難者慰霊碑

東軍の遺体が埋葬さえた場所
東軍の遺体が埋葬された場所


東軍殉難者慰霊碑所在地

福島県耶麻郡猪苗代町蚕養ホナリ乙3697-19

地図でめぐる斎藤一の戦績

【白河関所から如来堂まで】

参考文献

『島田魁日記』
『新選組銘々伝三巻』(新人物往来社)
『新選組・斎藤一のすべて』(新人物往来社)
『新選組日誌 上・下』(新人物往来社)

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