新選組のスポンサー佐藤彦五郎、土方歳三の姉の墓所~大昌寺~|東京都日野市

新選組のスポンサー佐藤彦五郎、土方歳三の姉の墓所~大昌寺~|東京都日野市
大昌寺

土方歳三の義理の兄であり、近藤勇の兄弟子、佐藤彦五郎と実の姉のぶ(とく)は日野市大昌寺に眠っている。

佐藤彦五郎の生涯

日野宿本陣を自宅としていた佐藤彦五郎は文政十年(1827年)、武蔵国多摩郡日野宿で生まれた。

父は半次郎。母はまさ。

長男であった彦五郎は11歳で祖父の10代彦右衛門から日野本郷名主、日野宿問屋役、日野組合村寄場名主を継ぐ。

弘化二年(1845年)、のちの新選組副長、石田村の土方歳三の姉で従妹にあたるとくと結婚。土方歳三にとっては従妹であり義理の兄になった。

嘉永二年一月十八日(1849年2月10日)、日野宿を焼く大火が発生。

その際盗賊により母親が眼前で斬殺されるのを見て自衛の必要を痛感した彦五郎は、嘉永3年(1850年)に天然理心流3代目宗家・近藤周助の門人となった。自宅の東側の一角に日野宿では初となる道場を設た。

この道場に近藤勇、土方歳三、沖田総司らが出稽古に訪れていた。

安政二年

佐藤彦五郎は近藤勇と義兄弟の杯を交わした。

文久三年

近藤らが浪士組に参加し上洛する際には資金を提供した。

新選組がなった際も佐藤と近藤のやり取りは続き、近藤は京都の情勢を、佐藤は江戸の情勢を伝えあっていた。

慶応二年(1866年)

武州一揆鎮圧や八王子壷伊勢屋での薩摩浪士捕縛などで活躍している。

慶応四年(1868年)三月 

新選組の残党とタマ地域の農民からなる「春日隊」を結成し「甲陽鎮部隊」に参加。

甲州勝沼戦争に加わったが敗走、新政府軍に追われる身となった佐藤は身を隠す生活となる。

しかし翌月日野宿有志の嘆願により公務に復帰。

晴れて追われる身から解放された。

明治維新後は小島鹿之助らと共に賊軍とされた近藤らの新選組隊士の復権と顕彰に尽力する。

現在、高幡不動の境内に「殉節両雄之碑」が建てられているが、この建立にも関わっている。

明治五年(1872年)名を俊正と改める。

明治十一年(1878年)郡区町村編制法により多摩郡が東西南北に分けられたとき初代南多摩郡長となる。

明治三十五年(1902年)死去。享年76。

佐藤のぶ(とく)の生涯

土方歳三の実の姉であるのぶは天保二年(1831年)、武州多摩郡石田村に、豪農土方隼人(義諄)の次女として生まれる。

子供のころの名前は「らん」であった。

天保十五年(1844年)日野宿名主・佐藤彦五郎へ嫁いだ。

この頃の名は「とく」。

まだ多摩にいた歳三がは姉のところによく遊びに来ていたという。

三女、四男を生んだが長女は早くに亡くなった。

慶応四年(1868年)、戊辰戦争が勃発し、弟である土方歳三、夫の義兄弟・近藤勇が興した甲陽鎮撫隊に夫である彦五郎が加わる。

甲陽鎮部隊が甲州勝沼の戦いで敗北すると佐藤彦五郎は追われる身となったため離散した。

明治に入ると「のぶ」と名乗るようになる。

明治二年箱館を脱出した市村鉄之助が届けた歳三の手紙を、のぶは死ぬまで大事に持っていたという。

明治十年(1877年)一月十七日、死去。享年47。


佐藤彦五郎・のぶの墓

佐藤彦五郎・のぶの墓
佐藤彦五郎・のぶの墓
 大昌寺は正式名称を「三鷲山鶴樹院大昌寺」といい浄土宗知恩院末の寺である。

慶長七年(1602年)に八王子の大善寺の開山である中秀助給和尚(讃誉牛秀(さんよぎゅうしゅう)が隠棲の場所として建立したといわれている。

日野で代々名主を務めていた佐藤家の墓所もあり、佐藤彦五郎、土方歳三の姉であるのぶ(とく)も同じ場所に眠っている。

墓地へ行くと赤い誠の旗が建っているのですぐにわかる。

「佐藤家の墓」と書かれたりっばな墓石の隣にある墓誌には下記の通り刻まれている。

代三十

勧善院宣譽徳顯大姉 明治十年一月二十日 ノブ 四十七才

慶雲院郵譽玉陵居士 明治四十四年四月十三日 俊宣 八十才


大昌寺基本情報

所在地:東京都日野市日野本町2-12-13

☎:042-581-2125

アクセス:JR中央線日野駅下車徒歩5分


参考文献

   

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