永倉新八が余生を過ごした小樽をめぐる|北海道小樽市

永倉新八が余生を過ごした小樽をめぐる
小樽駅

新選組副長助勤兼剣撃師範、新選組最強の男、新選組の語り部、複数の肩書を持つ永倉新八はその余生を北海道の小樽で過ごした。

小樽は札幌から電車で約1時間で行くことができる。

永倉新八の脱隊後の人生

新選組としての永倉新八は、慶応四年(1868年)の板垣退助率いる先鋒総督軍と甲州勝沼の戦いが最後である。

永倉はその後米沢で明治維新を迎え、江戸にもどり古巣の松前藩に戻る。

明治四年(1871年)に杉村家に婿入りし北海道の松前(福山)へ渡った。  

明治六年または八年に杉村家の家督を継ぎ、名を「義衛(よしえ)」と改める。

養父がなくなると、東京で剣術道場を開いたり出稽古などをして一人暮らす。

北海道の小樽へ渡ったのは明治六年以降で、警察官僚・月形潔の招きで、明治十五年(1882年)から4年間、樺戸集治監で剣術師範を務め、看守に剣術を指導する。

明治十九年に退職し、妻子を伴って上京するが、その途中で函館により碧血碑にて土方歳三、伊庭八郎を弔い、米沢で雲井龍雄の妻子を訪ね、東京牛込にて剣術道場を開いた。

この東京に滞在している間に板橋に近藤勇や土方歳三を弔う墓碑を建てる。

また京都、大阪を訪ねている最中に思いがけず新選組時代にもうけた長女で女優の「イソ子」芸名「尾上小亀」と会った。

明治三十二年(1899年)、妻と子供が小樽市内で薬局を開いていたため、再度小樽へ転居。

明治三十八年(1905年)から小樽市緑1丁目(旧小樽少年科学館付近)に転居。

明治四十二年(1909年)7月、小樽市花園町に住む。

東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部を指導する。

大正4年(1915年)1月5日、虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発し、小樽にて死去。

享年77。

墓所は小樽市中央墓地と札幌市里塚霊園、東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地の3箇所がある。

小樽にある永倉新八関連の地

小樽市中央墓地(永倉新八墓所)

杉村家の墓(永倉新八墓所)
杉村家の墓(永倉新八墓所)

小樽市の西側の山の上にある中央墓地に杉村家の墓はある。
墓地の頂上に位置する葬祭場の正面玄関を背にし右側に歩いていく。
墓地へ入る最初の通路を入りまっすぐ行く、左に曲がってまたまっすぐ右に曲がると少し高い場所にある開けたところに墓石が2つ並んでいる。
昔は墓石に「杉村玄英源治之墓」と彫られていたが、現在はきれいに整備され現代風(?)の墓石になっている。
「永倉新八の墓」というよりは杉村家の墓になっている。
*お参りの注意点
線香・ローソク・供物はすべて持ち帰ること。
水やお酒などで墓石を汚さないこと。


所在地
〒047-0034 北海道小樽市緑5丁目61

アクセス方法
●小樽駅から天狗山ロープウェイ線「小樽未来創造高校前」下車
徒歩14分(950m)
●小樽駅で電動アシスト付き自転車レンタル 24分
小樽中央葬祭場から永倉新八の墓所への行方
小樽市葬祭場から永倉新町墓所まで


小樽市役所と花園町周辺(永倉新八晩年を過ごす)

小樽市役所
小樽市役所

小樽市役所と永倉新八:

明治四十二年(1909年)7月、永倉は小樽市花園町に移る。
大正4年(1915年)1月5日に77歳でなくなるまでの約6年間をここで過ごした。
小樽市役所は1880年代に建てられたので永倉も市役所を目にしたはずだ。
現在の小樽市庁舎は、昭和八年(1933年)に建てられたものなので永倉新八が見たものとは異なる。
池波正太郎の「幕末新選組」によると永倉新町の終の棲家は

公園通りを日活劇場の少し先まで行って右に曲がったところ

日活劇場はすでに閉館しているが北海道小樽市花園町東3-1にあった。
しかし公園通りを海側から行くのか山側から行くのか書かれていないため、永倉新八の家が花園町のどこにあったのか具体的な場所まではわからなかった。


小樽市役所情報
〒047-8660 北海道小樽市花園2丁目12-1
☎:01-3432-4111

小樽公園(永倉新八孫と散歩)

永倉新八が孫の手を引いて散策した小樽公園
小樽公園

小樽公園とは:

明治二十六年(1893)に開園した小樽で最も歴史のある公園。
市の中心にある。
開園まえは砲台や要塞のある軍事施設だったが明治時代の終わりから大正時代にかけて、要塞や軍事施設の役割は変化し、不要となっていった。
その流れの中で、小樽市は公共の利益のためにこの地域を公園として整備することを決定。
公園化の工事が行われ、1893年に小樽公園が開園した。
現在の園内には市民会館、総合体育館、公会堂、野球場、グランドなどの施設をはじめ、日本庭園、石川啄木の歌碑、少女の像などがある。


小樽公園と永倉新八:

公園は永倉が暮らした花園町(現・小樽市役所)の真裏にある。

永倉新八が、孫の手を引いて公園を散策していたと伝わっている。


小樽公園施設情報
〒047-0024 北海道小樽市花園5丁目3
☎01-3432-4111

永倉新八が近藤勇の娘と対面した地

小樽 永倉新八、山田音羽対面の地
永倉新八、山田音羽対面の地

大正2年(1913年)5月22日、新八の元に近藤勇の娘と名乗る「山田音羽」が訪ねてきた。
対象2年(1913年)3月17日から同年6月11日にかけて、小樽新聞で連載された「新撰組 永倉新八」を読み、新八が父・近藤勇の写真を持っていると知り、会いに来たのである。
山田音羽が本当に近藤勇の娘かどうかはわからないが、新八は「似ている」と評している。
市役所下交差点の地下道へ続く階段の裏側に看板が立っている。


所在地:〒047-0024 北海道小樽市花園2丁目4-6


水天宮(永倉新八が孫に剣術を教えた)

永倉新八が孫に剣術を教えた
水天宮

水天宮とは:

小樽水天宮は安政六年(1859年)に、創祀された。
小樽港を一望できる高台あり、海側の堺町へ下る急な階段と坂道は外人坂と呼ばれている。
山側の小樽公園までは一直線の道路で結ばれており、景観の統合が図られた。
境内には石川啄木歌碑、三ツ谷謡村(みつやようそん)句碑、河邨文一郎詩碑が設置されている。
永倉新八と水天宮
孫の道男が小学生になると新八は剣術を教えた。
よく水天宮で稽古をしていたそうだ。
池波正太郎の「幕末新選組」によると晩年の新八は毎日のようにここへきては海を眺めていたという。

新八も眺めた小樽湾
新八も眺めた小樽湾
施設情報
所在地:〒047-0028 北海道小樽市相生町3-1
☎01-3422-3495

幻の入船町199(永倉新八が最初に住んだ場所)

入船町一九九番地は永倉新八が小樽に移り住んだ際の最初の住所とされている。
新選組ファンとしてはぜひ足を運びたいところだが、残念ながらその場所はわかっていない。
それどころか北海道小樽商業高等学校生徒による調査によるとその番地は当時存在していないそうだ。
永倉新八が間違えたか、税金の不要な高台に住んでいたか、と結論付けられている。

量徳寺(永倉新八菩提寺/ミニ資料館)

永倉新八菩提寺・量徳寺
量徳寺

量徳寺は1858年に東本願寺の出張所として開創した浄土真宗東本願寺派の寺である。
永倉新八の菩提寺
有志によって山門前に「旧新撰組 副長助勤 永倉新八菩提寺」の石碑が立てられ、永倉新八のミニ資料館が常設されている。
資料館は窓口に声をかけると開けてもらえる



旧新選組 副長助勤 永倉新八菩提寺
旧新撰組 副長助勤 永倉新八菩提寺
永倉新八ミニ資料館
量徳寺内にあるミニ資料館
事務所に声をかけると無料で拝観できる

所在地:〒047-0021 北海道小樽市入船1丁目7−1
☎:01-3434-2244
開館時間:不明(寺の門は17:30でしまる)
入場料:無料
駐車場:あり(無料)

番外編・小樽の見どころ 金カムゆかりの地など

浪漫館

(金カムで土方歳三が襲った銀行のモデルとなった建物)
建物は明治41年に建築された旧百十三銀行小樽支店。
新八もこの建物を見ている可能性は十分あり得る。
現在はアクセサリーショップ。
ゴールデンカムイ土方歳三が襲った銀行
旧百十三銀行小樽支店

小樽都通り商店街で榎本武明に出会う

榎本武明は箱館戦争後、投獄されたのち北海道庁長官に就任。

小樽を訪れた。その時小樽の資源に可能性を感じ小樽市稲穂(現在の小樽駅周辺)20万坪を購入し、土地の管理会社「北辰社」設立。
小樽開拓の重要人物とされ地元民から愛されている。
「武揚さん」触るとご利益あり

商店街の入り口や途中に小樽と榎本武揚の関係が説明されている

愛されている「えのさん」




参考文献

   

 

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