角屋|新選組御用達の揚屋|京都府京都島原


島原にあった角屋
島原にあった角屋

角屋とは

角屋は、京都の花街・島原開設当初からつづいていた「揚屋*」である。
現在は営業していないが昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されて以降「角屋もてなしの文化美術館」といて拝観することができる。
 
 置屋から芸妓や太夫を読んだことから遊郭と混同されがちだが、遊郭とは異なる。
揚屋は太夫や芸妓を抱えず、 置屋から太夫、 芸妓を派遣してもらい、お客に遊宴をしてもらう場所である。
 揚屋は料理を作るので 現在の料亭、料理屋にあたる。 
※揚屋は、江戸時代のみで、明治以降はお茶屋業に編入される。

一方、置屋は太夫や芸妓を抱え、 揚屋に派遣する。置屋ではお客を上げたり宴会を開いたりはしなかったが、明治以降、お茶屋業を兼務する置屋では宴会業務も行うようになった。

この揚屋と置屋の分業制を「送り込み制」といい、 現在の祇園などの花街に 「お茶屋 (宴席)」 と 「屋形 (芸妓 舞妓を抱える店)」の 制度として伝えられている。 これに対して、吉原などの遊廓の店は自ら娼妓を抱えて歓楽のみの営業を行う。 これを「居稼ぎ制」 という。

角屋と新選組

芹沢鴨暗殺の為に宴会を開いた松の間
松の間

八・一八の政変に出動した新選組は会津藩から報償をうけた。
それをもって角屋の松の間で大宴会を実施する。
その日にちは文久三年九月十八日(1863年10月30日)。
新選組局長・芹沢鴨の命日である。
芹沢を酔わせた宴会はここ「松の間」で行われた。
建物自体は国の重要文化財に登録されているが、松の間だけは大正末期の火災で燃えてしまったため現存するのは再建したものであるため文化財に登録はされていない。
普段松の間は非公開だが2023年に行われた特別公開で入ることができた。
角屋「松の間」
松の間からみた庭

角屋を救った西郷隆盛

島原随一の揚屋だった角屋には歴史上の人物と縁がたくさんあった。
幕府側の人間も維新側の人間も角屋を利用していた。
西郷隆盛、久坂玄端、清川八郎などの名が逸話として残っている。

西郷隆盛

角屋の端に大きなたらいがある。これは西郷隆盛が使ったとして大切に保管されているたらいだ。昭和二十年(1945)第二次世界大戦の戦況悪化に伴い、京都市内も空襲による延焼を防止するため、主要な道路や鉄道から50m以内の建物が取り壊しの対象になった。
角屋も西側に山陰線が隣接しているため取り壊しの対象となったが京都市の担当者が視察した時に、西郷隆盛が使ったたらいを目にする。明治維新の立役者、西郷先生も通った由緒正しき建物を解体してよいものかどうか持ち帰って検討することとなったため取り壊しは延期されたという。そうこうしているうちに1945年8月終戦を迎え
角屋は解体を免れ現在まで残ることとなった

西郷隆盛が使ったたらい|角屋
西郷隆盛が使ったたらい

久坂玄端

角屋の建物の前には「久坂玄瑞密議の角屋」の石碑が立っている。頻繁に利用していたのだろう。
角屋の前にある「久坂玄瑞密議の角屋」の石碑
角屋の前にある「久坂玄瑞密議の角屋」の石碑


清川八郎

ある意味新選組を生むきっかけとなった清川八郎は母親を呼び寄せしばらく滞在したこともあった。吉原などとは違い婦人でも気軽に訪問できる場所だったからだ。

新選組が残した刀傷

角屋の外側には新選組が残したといわれる刀傷がある。

新選組が残した刀傷|角屋
新選組が残した刀傷

施設情報

所在地:〒600-8828 京都府京都市下京区西新屋敷揚屋町32
電話番号:0753510024

開館時間 :午前10時~午後3時30分まで(受付終了)
休館日:月曜日(月曜祝日の場合は翌日休館)
入館料:一般1,000円、中高生800円、小学生500円

2階座敷は1日4回の案内(10時15分、13時15分、14時15分、15時15分)。別途料金800円、中高生600円、小学生以下の見学は不可。

参考文献

   

 


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