伏見街道|近藤勇銃撃される|京都府伏見

墨染事件
近藤勇が狙撃された現場付近に立つ石碑

近藤勇銃撃される

慶応三年十二月十六日(1867年12月29日)王政復古の大号令が発せられる。
それに伴い新選組は京都から伏見奉行所へ屯所を移す。
慶応三年十二月十八日(1867年12月31日)新選組局長の近藤勇は、会議の為に二条城へ赴く。
その帰り、島田魁ら新選組隊士3名を含む約20名に近藤一行は伏見奉行所へ戻る途中の伏見の城下町に入る直前の墨染付近で、馬上にいた近藤は銃撃され、右肩に銃弾を受けた。

銃声を合図に賊らは近藤を仕留めようと刀身を手に襲ってきたが、島田魁が近藤の馬に鞭を入れ先に逃がした。
血だらけになって屯所へ戻ってきた近藤を見た土方は永倉を伴って墨染へ急行したものの賊は逃げた後だった。
石井勇之進と付き添いが犠牲となった。
大阪にいた徳川慶喜は近藤負傷の報を聞き、医師で新選組と交流のあった松本良順を伏見まで差し向けた。
負傷した近藤は病気の沖田総司と共に大阪城で療養を余儀なくされたため、翌年におこる鳥羽伏見の戦いには参加できなかった。
代わりに土方歳三が指揮を執った。

襲撃犯は?

近藤を襲撃したのは、十一月に油小路の変で近藤らに暗殺された伊東一派の生き残り、篠原泰之進、阿部十郎、内海次郎、加納道之助、富山弥兵衛、佐原太郎の合計6名。
阿部と富山が銃を持ち、近藤を狙撃したのち抜刀して近藤のとどめを刺そうと思ったが、護衛と乱戦になり馬で逃げた近藤が屯所に知らせ応援が来ると予測した6人は今出川の薩摩藩邸まで逃げ戻った。
明治に入ってから行られた座談会で近藤の肩を打ち抜いたのは富山弥兵衛だと、阿部十郎が証言している(『史談会速記録』)

はっきりしない襲撃の地

現在では伏見墨染にある日本料理「清和荘」の前に「近藤勇遭難の地」の石碑はあるものの実はその場所ははっきりとはわかっていない。
阿部十郎らの証言によれば墨染から約1km南の伏見街道丹波橋筋付近(現在の国道24号線沿い、市バス丹波橋バス停付近)と言われているが、藤森神社近くに隠れていたという説もある。

アクセス

近藤勇遭難の地石碑
〒612-8431 京都府京都市伏見区深草越後屋敷町3−6

 

参考文献

   

 


新選組ゆかりの地を地図から探す



コメント