鳥羽・伏見の戦いとゆかりの地|戊辰戦争の開戦地

慶応三年十月十四日(1867年)大政奉還が行われた。

同十二月十六日、王政復古の大号令が発せられ、新選組は京の二条城へ警護に入った。

しかし、将軍の命によりすでにその役目に就いていた水戸藩と対立し、京を離れることとなった。

新選組は大坂へ一旦入ったものの、京から大坂への途上に位置する伏見まで引き返し幕府軍が陣取る伏見奉行所で伏見の警護に加わった。

翌年、慶応四年一月三日(1868年1月27日)、鳥羽伏見の戦いが勃発する。

鳥羽・伏見の戦い時系列

鳥羽伏見の戦いは、戊辰戦争の開戦となった主要な戦闘の一つで、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍と、旧幕府軍(会津藩など)との戦闘で新選組は旧幕府軍として参戦した。

以下は、鳥羽伏見の戦いにおける主な各藩の動きを日別にまとめたもの

慶応四年/明治元年 正月三日(1868年1月27日)

午前、鳥羽街道を封鎖するために南下してきた薩摩軍の斥候と大阪城を発って鳥羽街道を北上してきた旧幕府軍の先頭・京都見廻組の先発隊が上鳥羽村において接触した。

伏見市街で新政府軍との戦闘が始まり、旧幕府軍は奮戦するものの、新政府軍に一部退却を余儀なくされる。伏見奉行所が炎上し、淀方面への退却が始まる。

新選組は伏見奉行所に陣を置き市街地で戦っていた。

一月四日(1月28日)以降

新政府軍(薩摩・長州連合軍):

伏見市街を制圧し、奉行所を焼き払いながら進撃。淀川方面に進軍し、大坂方面の旧幕府軍との連携を図る。

旧幕府軍(主に会津藩など):

混乱が続く中、各藩は会津藩や新撰組などが中心となって抵抗。新政府軍の進撃に苦戦しつつも奮闘。新選組は淀城下に布陣

一月五日(1月29日)
新選組、淀の千両松で戦闘。井上源三郎ら戦死。千両松から撤退した新選組は会津藩と合流し淀城へ入ろうとするが、淀藩に拒否され橋本まで退却。

一月六日(1月30日)

新選組、橋本で敗れ大阪へ退却。八軒家の京屋忠兵衛方に宿陣する。

鳥羽伏見の戦いは数日にわたる激しい戦闘で、新政府軍が最終的に勝利し、幕府軍は淀川方面や大坂方面に退却する形となった。この戦いは、戊辰戦争の序章として、新政府の力が確立されつつある時期の重要な出来事だった。

新選組ゆかりの地

鳥羽伏見の戦い勃発の地

鳥羽伏見の戦い跡
鳥羽伏見の戦い跡
慶応四年/明治元年 正月三日(1868年1月27日)午前、鳥羽街道を封鎖するために南下してきた薩摩軍の斥候と大阪城を発って鳥羽街道を北上してきた旧幕府軍の先頭・京都見廻組の先発隊が上鳥羽村において接触した。

戊辰戦争の始まりである。

史跡情報 鳥羽・伏見戦場跡所 所在地:〒612-8459 京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町27

魚三楼

戊辰戦争の弾痕がのこる魚三楼
魚三楼
慶応四年一月三日、伏見奉行所に入った新選組は御香の宮に陣取った薩摩軍と激突。
永倉新八によれば午後七時ごろ御香の宮の訪問が開き伏見市中の主要な建物は砲弾の標的となった。
残る弾痕
伏見奉行所にも10発ほど撃ち込まれた。
不在の近藤勇に代わって指揮を執っていた土方歳三は大砲でもって応戦する。
約1時間の砲撃戦ののち、副長助勤の永倉新八に隊を率いて決死隊として相手陣地に切り込めと命令する。
永倉は島田魁、伊藤鉄五郎らと共に土塀を乗り越えて薩摩軍へ切り込もうとする。
永倉らの奮戦に薩摩軍は退却を始めたので永倉隊は追いかけるが両側の民家から火が上がり進むことができなかったため伏見奉行所の塀際まで戻った。
再び塀を乗り越え伏見奉行所に入ろうとしたが永倉の装備が重かったため塀を超えられない。
そこで島田魁が銃につかまった永倉をひょいと塀まで持ち上げた、というエピソードは島田魁の力自慢として残っている。
白刃戦には勝利したものの薩摩藩の砲撃はやまず、ついに伏見奉行所が燃え始めたので新選組は仕方なく奉行所を放棄し会津藩と合流する。
今も残る弾痕
慶応四年一月四日の午前三時ごろ、会津藩、新選組ともに大阪方面へ下る。
新選組が主に戦っていたと思わわれる伏見桃山、京町通りにある日本料理や「魚三楼」は魚三楼は江戸時代の明和元(1764)年、讃岐出身の初代・三郎兵衛が創業した。
当時から現存する貴重な建物である。
魚三楼のHPには新選組について次のように記載されている。
幕末、新政府軍と幕府軍が衝突した鳥羽伏見の戦いでは魚三楼の前・京町通に布陣した新撰組が、銃砲で武装した薩摩藩軍へ白刃で斬り込んだといわれています。
表の格子には当時の銃撃戦の弾痕が保存されています。

 

史跡情報 魚三楼 所在地:〒612-8083 京都府京都市伏見区京町3丁目187

淀・千両松

戊辰戦争淀千両松の戦いの碑
戊辰戦争淀千両松の戦いの碑

慶応四年一月五日、伏見奉行所を焼け出された新選組は淀堤の千本(両)松で陣を張る。
ここでも薩摩軍が大砲を雨あれれのごと撃ち込んでくるが、旧幕府軍側は鉄砲が足りないので抜刀し応戦する。
永倉新八曰く、一時は薩摩藩を退けるもすぐに盛り返してきた。
横倉甚五郎によると新選組副長助勤・井上源三郎は千両松で戦死する。
井上源三郎含め以下の新選組隊士たちがこの日、戦死した。
山崎丞*、真田四目之進、田村大三郎、古川小二郎、今井裕二郎、三品一郎、小林峰太郎、鈴木直人、林小五郎、水口市松、逸見勝三郎、諏訪市二郎、桜井和数馬

*山崎丞の死亡については大阪から江戸へ帰る船の中で亡くなったという証言もあり定かではない。


現在の千両松には戦いの碑と同じ敷地内に東軍死者埋葬地がある。

東軍死者埋骨地

史跡情報 戊辰戦争淀千両松の戦いの碑 所在地:〒612-8267 京都府京都市伏見区納所下野

淀城

淀城跡公園
淀城址公園

元々の淀城は、豊臣秀吉によって一度廃城になったが、江戸幕府が淀を物流拠点にするために再び城を築いた。
鳥羽・伏見の戦いの頃は、淀藩12代藩主で幕府老中を務める稲葉正邦が城主だった。

慶応四年一月五日、旧幕府軍は、新政府軍を小分けにするため、淀堤という狭い堤防しか道がない千両松で新政府軍を迎撃。
新選組も千両松で戦い副長助勤の井上源三郎も戦死する。
千両松から撤退した新選組は会津藩と合流し淀城へ入ろうとするが、永倉新八曰く
薩長の兵はこのとき、対岸から小舟を犠って淀川を渡り、続々淀城内へ繰り込 む模様に、会津兵は城内指して大手門にかかると、城主稲葉長門守は勅命と称して固くその入城を拒む。「新選組奮戦記PHP研究所」
淀藩の寝がえりである。
淀藩に拒絶された旧幕府軍は新政府軍が追ってこられないように市街地に火を放って大坂城まで退却した。
新選組も共に大阪城まで退却することとなる。
淀城址公園にある與杼神社

淀城址公園
石垣のみが残る

淀城をあきらめ大阪へ撤退するときに会津の林又三郎や佐々木只三郎が戦死する現在の淀城址の石垣現在の淀城址は公園になっていて與杼神社と石垣が残っている

史跡情報 淀城址公園 所在地:所在地:〒613-0903 京都府京都市伏見区淀本町168

会津藩駐屯地跡(伏見御堂)

会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
会津藩駐屯地跡(伏見御堂)

 伏見御堂は桃山時代の慶長年間に東本願寺の第12代法主・教如が創建しまた御堂。
本堂は徳川家康の居城・向島城の殿舎の遺構を改築したものと伝えられ、寺域は徳川家康の寄進によるもので、蓮池を埋めたことから蓮池御坊とも呼ばれたらしい。

  慶応四年一月二日(1868)夕方、会津藩の先鋒隊約200名が伏見京橋に上陸し、伏見御堂を陣にした。

一発の砲声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物は大きな損害を受けたと伝えられています。そのため、創建当初、建物は東向きにつくられましたが、明治18(1883)年に南向きに縮小して建て替えられました。平成2(1990)年に建物は老朽化のために取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されています。(京都市情報データベースより引用)

史跡情報 伏見御堂 所在地:〒612-8048 京都府京都市伏見区大坂町(東本願寺伏見別院前)

鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)供養碑など

妙教寺

東軍慰霊碑と当時の弾痕が残る妙教寺
妙教寺
大圓山妙教寺は寛永年間に、当時の淀城主・松平定綱が寺地を寄進し、寺域を整備した。
後退する幕府の砲弾が壁を突き破り本堂や柱に跡を残す。(原則非公開)
境内には東軍慰霊碑がある。
妙教寺境内にある東軍慰霊碑
妙教寺境内にある東軍慰霊碑
東軍慰霊碑は明治40年に建立された。
裏側には榎本武揚の書がある。
東軍の戦死者を鳥羽村悲願寺墓地、納所村愛宕茶屋堤防、八番楳木の3か所に埋葬したと書かれている。

史跡情報 妙教寺 所在地:〒612-8279 京都府京都市伏見区納所北城堀49 電話番号:0752-005-055

戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋堤防)

戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋堤防)
戊辰役東軍戦死者埋骨地
当時、鳥羽街道にあった愛宕茶屋周辺で激戦が繰り広げられた。
慶応四(1868)年一月五日の東軍戦死者35柱を埋骨。

史跡情報 戊辰役東軍戦死者埋骨地 所在地:〒612-8272 京都府京都市伏見区納所中河原32

戊辰役東軍戦死者埋骨地(八番楳木)

戊辰役東軍戦死者埋骨地(八番楳木)
東軍戦死者埋骨地
妙教寺の東軍慰霊碑に書かれている納骨場所3か所のうちの1か所。
戊辰戦争千両松戦いの碑と同じ敷地内に埋葬地がある。

史跡情報 戊辰役東軍戦死者埋骨地(八番楳木) 所在地:〒612-8267 京都府京都市伏見区納所下野

鳥羽伏見之戦跡地供養塔

鳥羽伏見之戦跡地供養塔(旧京阪国道)

史跡情報 鳥羽伏見之戦跡地供養塔 所在地:〒612-8274 京都府京都市伏見区納所星柳



「戊辰役戦場址」の碑

戊辰役戦場址

もともとは南の防波堤上にあったが現在は納所会館前にある。

 この石標は,戊辰役東軍戦死者埋骨地(HU004)南の堤防上にあったものが現地に移されたもので,戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の跡を示すものである。慶応4(1868)年正月3日夕方に鳥羽伏見戦が勃発,次第に淀方面に主戦場を移した。5日この附近は幕府軍砲兵の陣地となり,官軍来攻に備えた。官軍の総攻撃に幕府軍が応戦して激戦となり,多数の戦死者を出し,幕府軍は納所から敗走した。
京都市情報システム「フィールドミュージアム京都」から引用

史跡情報 戊辰役戦場址 所在地:〒612-8277 京都府京都市伏見区納所町71-28

参考文献

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