新選組受難の地・如来堂 |
如来堂の戦い
慶応四年九月四日(1868年10月17日)
斎藤一引きいる会津新選組は小田付代官所から如来堂へ向けて出発する。
会津藩家老の萱野権兵衛が布陣していた神指高久で戦闘が勃発し、如来堂の警備が薄くなるための応援だった。
会津新選組の総員が向かったわけではなく斎藤一含む20名程度が向かった。
「九月四日、高久村にて戦争あい始まり、当隊より応援として一小隊繰り出す「中島登日記」
のちに箱館へ行くことになる中島登や島田魁は塩川に残った。
福島県喜多方市にある小田付代官所から如来堂まで約21kmほどあり、新選組は四日に出発して同日如来堂に布陣している。
当時の武士たちの健脚ぶりがうかがえるが如来堂のすぐ西側には荒神山から会津盆地に流れ込む阿賀川が流れている。
もしかしたら新選組は喜多方から川を下って城下町付近まで戻ってきたのかもしれない。
徒歩にしろ舟での移動にしろ、長距離を移動してきたばかりで疲れていたはずの新選組を新政府軍が急襲する。
九月四日高久村にて戦争相始まり、当隊より応援として一小隊繰り出す。しかるに、ほどなく如来堂の本営へ敵兵不意に押し寄せすぐさま接戦相始まり、何分味方二十余人の小勢故、ほかに防御の術なくことごとく死す『島田魁日記』
九月五日早朝の如来堂の戦いで斉藤一ら約20名の新選組隊士は敵の攻撃を受けて壊滅状態となる。
小畑三郎、荒井浜を店、高田文次郎店、清水町店、高橋優らが戦死した。
塩川にいた中島達には如来堂の新選組は全滅と伝えられ、斎藤一もこの時戦死したと思われていた。
中島登が描いた戦友姿絵の斎藤一の横には次の言葉が添えられている。
「山口 二郎行年二十七才
元徳川臣たり。故ありて京地に到り、新選組に加入し助勤役たりしが、撃剣を能くし、柔にして能く剛を制すの器あり。後会津に来て屢々戦功あるにより、昇任して終に隊長となり、辰九月四日如来堂と云う処の戦いに僅か十三人にて三百余の敵に取り囲まれ、四方に当て突撃血戦し、終に血路を得ず、長士枕を共にし、深く討死す。天晴れ信勇の武夫也。嗟呼惜しむべし。」
同じく如来堂の生き残りでこの後、箱館まで行った久米部正親によると「船で逃げた」とあるため、喜多方から船で来たのではないかと一層考えてしまう。
如来堂に布陣していた約20名の内、7名は脱出できた。
これにより北方は残らず敵のものとなる『島田魁日記』
島田魁によると敵に包囲されたため新選組及び旧幕府軍約二千人は話し合いにより仙台へ行くことを決定した。
島田は仙台で土方と合流、箱館まで戦い、久米部正親は水戸へ行こうとしたが天狗と書生党の争いでそれどころではなく、下総へ渡り箱館戦争に参加した。
如来堂以後、斎藤一の消息は不明だが二千人の中には入らず、おそらく落城するまで城下町周辺でゲリラ戦を繰り広げていたのではないだろうか。
※2025年の放送のNHK「ラストサムライ 謎多き新選組隊士 斎藤一」では如来堂の後会津藩家老・山川浩と行動を共にしていたといわれる。
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