京都四条大橋 |
殿内義雄暗殺
文久三年三月二十五日(1863年5月12日)壬生狼士組の殿内義雄が暗殺される。
清川八郎が江戸へ戻り、近藤勇ら一部の浪士たちが京都残留を決めた際に、幕臣・鵜殿鳩翁から、家里次郎と共に残留者の取りまとめを任されたのが殿内だった。
壬生狼士組の筆頭格としては芹沢鴨と近藤勇は有名だが実は幕府側の窓口と考えたときの代表は殿内義雄だった。
しかも殿内は幕府側から任命されたため派閥らしきものはなかった。
近藤、芹沢らとの折り合いが悪かったのか、理由は定かではないが三月二十五日、殿内は旅装で刀は袋にしまわれたまま殺害された。
これが新選組内で最初の粛清といわれている。
「…同志殿内義雄ト申ス仁、四条大橋ニテ打チ果タシ候…(文久三年五月近藤勇書簡)」
近藤は特に隠していないため彼らに悪気はなかったと思われる。
むしろ正義を実行したと思っていたのではないだろうか。
新選組、十津川郷士らと切合う?
四条大橋の戦い
慶応三年一月七日(1867年2月11日)
十津川郷士・中井庄五郎、那須盛馬は高瀬四条下る浮蓮亭で泥酔するまで酒を飲んだ。
四条大橋で新選組の沖田総司、永倉新八、斎藤一に合いケンカから切合いとなった。
那須はけがを負ったが中井は無傷だった。
しかし、残っているのはすべて那須、中井の証言で、新選組側には当時の記録が残っていない。
さらにこの時、永倉と斎藤一は正月に起こした角屋酒宴事件で謹慎中だった。
そのため切合い事態はあったが、相手に関しては疑わざるを得ない。
余談だが中井はその後に起こる天満屋事件で討死している。
現在も三条大橋と並ぶ主要な橋となっているため観光客など人通りが多い。阪急:京都河原駅
京阪:祇園四条駅
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