斎藤一が晩年に住んだ旧真砂30番地 |
斎藤一終焉の地
生きている間は名前も住処も次々と変えた新選組副長助勤・斎藤一。斎藤一が終の住処として伝わっているのが本郷区真砂町30だ。
今でもよく覚えておりますが、丁度、今の文京区と(千代田区の)さかいになるあたりの春日町の停留所のそばに錦秋女学校というのがございまして、その女学校の横に、石段があって、その石段を上がったところに、時尾さまのお住まいがありました。
(「新選組シリーズ (七) 新選組をめぐる女たち」)
時尾の住まいということは斎藤一の住まいである。
斎藤一改め藤田五郎は大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍のためこの地で死去。
床の間で正座して亡くなったと伝わっている。
享年72歳。
本人の希望により会津若松市の阿弥陀寺に葬られた。
現在の斎藤一住宅跡地
この本郷区真砂町30だが、現在の住所でいうと文久区本郷1-35の1角で合ったとされている。
目印となる錦秋女学校はもう残っていないが、学園所有のビルと学校の説明板が残っている。
それによると、錦秋女学校は明治四十二年に秋間為子が全財産を投じこの地に女学校を設立。
昭和二十二年錦秋中学になり、昭和四十七年に生徒の募集を停止。
石段は残っていないが錦秋学園のビルの西側の一角と旧東富坂は勾配がついているため、かつては石段があったと思われる。
区画を一周すると「藤田総合法律事務所」があり、関係ないと思いつつも胸熱体験を得ることができた。
※斎藤一の終の棲家の場所は一部ネットなどで本郷4丁目が紹介されているが本サイトでは伊東成郎氏の「斎藤一 京都新選組四番隊組頭(河出書房新社)」から本郷1丁目を紹介。
明治四十二年設立の錦秋女学校跡地 |
錦秋学院由来の看板 |
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