斎藤屋跡地 会津若松郵便局 |
幕末の会津若松の甲賀町通りと会津楽市通りが交差する一角は旅籠が立ち並んでいた。
甲賀町通りと言えば、会津降伏の調印式が行われた場所でもある。
会津藩士や新選組はこの通りにある旅籠に世話になっていたようだ。
斎藤屋と新選組
母成峠で敗走した会津・新選組軍は猪苗代城(亀が城)まで後退。
土方歳三、斎藤一と会津藩の軍事方との間で軍議が行われた。
土方は松平容保に会うために滝沢本陣へ向かい斎藤率いる新選組は翌八月二十二日(1868年10月7日) 東山の天寧寺へと出陣した。
天寧寺に出陣するにあたり斎藤ら新選組は甲賀町通りと会津楽市通りが交差する旅籠が立ち並ぶ一角にあった「斎藤屋」に宿泊した。
「若松記草稿」によると宿帳に「新選組組長 山口次郎」と記帳されている。
土方歳三は戦線復帰をしていたが援軍を求め会津を離れていたため、新選組の組長は引き続き斎藤一が勤めていたと思われる。
その時の隊士は以下の通り25名に加え歩兵13名が宿泊。
隊長 山口次郎
軍目 安富某(才助) 同島田某(魁) 同 久米部某(正親)
歩兵頭取 近藤隼雄
小隊頭 近藤芳助 以下隊長付士官 大松某(大町綱太郎)、 小方某(尾形俊太郎)、 関口作蔵、中村清七、黒川佐吉
大砲方警衛 志村猪之助(武蔵)、 白戸巴衛(以下役職未記入)、吉村芳太郎、甘味勝之助(天海勝之進)、田村一郎、吉田某(俊太郎)、三品次郎、木下藤吉(巖?)、河江某(河合弥三郎)、清水某(卯吉)、小畑某(小幡三郎)、立川主悦、 池田常三郎(七三郎)、 高田文次郎
「若松記草稿」
現在の斎藤屋
斎藤屋の場所は「甲賀町通りと会津楽市通りが交差する一角」としか記されておらず具体的な場所は不明だった。
会津研究家の伊藤哲也氏に「会津中央郵便局(ママ)」が跡地とご教授いただいた。
この斎藤屋「飛脚宿」だったらしく、そのまま郵便局になっているとはなんとも感慨深い話。
集配所として使われていたため建物が大きい。
所在地:〒965-8799 福島県会津若松市中央1ー2ー17
参考文献/跡地特定ご協力
伊東哲也氏 X(tetu1130tetu)
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