斎藤一の墓所・阿弥陀寺 |
新選組副長助勤・三番隊組長・四番隊組頭・斎藤一は大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍のため東京の本郷真砂町で死去。
床の間で正座して亡くなったと伝わっている。
享年72歳。
その後、本人の生前からの希望により福島県会津若松市の阿弥陀寺に葬られた。
斎藤一(藤田五郎)と幕末会津藩士が眠る「阿弥陀寺」
福島県会津若松の歴史メイン通り「七日町通り」に位置する阿弥陀寺は元和4年(1618年)ごろ倉田氏中心に建立された。
戊辰戦争と阿弥陀寺
会津藩2,557人(女性194人を含む)の犠牲者を出した幕末戊辰戦争。
敗者かつ賊軍とみなされた会津藩士たちの遺体は正式に埋葬することが許されず、城下に仮埋葬されていました。
正式に埋葬が許されたのは明治二年になってからで、かつ埋葬が許された土地はこの阿弥陀寺と長命寺の2か所のみであった。
阿弥陀寺境内には1.5メートル四方の穴が掘られ、城下から集められた遺体が埋葬された。
方形の墳丘が築かれ墳頂には松が植えられ、周囲を木柵で囲んだ。
現在は「明治戊辰戦争殉職者墓」として墓石が建っている。
賊軍として借り埋葬されていた会津藩士たちの名誉は回復され「殉職者」として埋葬されている。
NHK大河ドラマ八重の桜で柳沢慎吾が熱演していた萱野権兵衛遥拝碑や西南戦争犠牲者の墓もある。
御三階
阿弥陀寺本堂の隣、写真の左側に見える、小ぶりの建物は、明治3年(1870年)新政府軍によって解体された鶴ヶ城の小天守だった建物である。阿弥陀寺に移築された小天守はいまは「御三階」とよなれている。幕末の鶴ヶ城として唯一現存している遺構である。
斎藤一と阿弥陀寺
土方歳三と会津で別れた斎藤一(戦争当時は一瀬伝八を名乗る)は会津藩所属として戊辰戦争を終えた。
鶴ヶ城落城の後謹慎を命じられた斎藤一含む会津藩士たちは謹慎先の斗南藩へ出発する当日に阿弥陀寺に参拝に来ている。
役務を終えた一はその後会津の娘・時尾と結婚。
藤田五郎と名を改め東京で警視庁に勤務し西南戦争にも出兵。
警視庁退職後は東京師範学校などに勤め、現在の文京区本郷の自宅で最期を迎えた。
72歳でこの世を去る時には床の間で結跏趺坐*をして往生を遂げたと伝えられる
新選組三番隊・隊長兼撃剣師範 斎藤一 大正4年(1915年)9月28日没、享年72歳
生前からの希望通り、遺体は会津へと運ばれかつての同志たちが眠る阿弥陀寺に葬られた。
阿弥陀寺には現在も「藤田家の墓」として残っており献花が絶えない。
藤田五郎(斎藤一)の墓 |
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