船宿・京屋|大阪府大阪市|新選組の定宿

船宿「京屋」跡地
船宿「京屋」跡地
新選組が大阪出張の際、定宿としたのが萬福寺と京屋である。
京屋は淀川の八軒屋船着き場近くにある船宿だ。
新選組副長助勤の永倉新八は『浪士文久報国記事』の中でたびたび京屋に宿泊したと記している。
慶応四年一月六日(1868年1月30日)戊辰戦争で撤退した時も京屋に宿陣している。
「六日焼天に敵、亦進来ス(中略)当局、八軒屋に陣す(『島田魁日記』)」

また、坂本龍馬の妻・お龍は回想録『反魂香』の中で、結婚前に妹を大坂丼池まで救出に行った際、京屋を利用したと語っている

なお明治三年には「和泉屋」に代替わりした。

斎藤一腹を下す

八軒屋の京屋にまつわるエピソードとして有名なのは、斎藤一の腹痛騒動だろう。
文久三年六月三日(1863年7月18日)
不審な浪士が大阪にいるとの情報を受け、芹沢鴨、近藤勇、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、平山五郎、 野口健司、井上源三郎、島田魁の10名が出張してきた。
近藤と井上以外の8名は、宿泊していた八軒家の船宿・京屋から夕涼みのため船で淀川へ出る。
その最中、斎藤一が腹痛に襲われたので、鍋島河岸に着船し、斎藤の介抱のため北新地の花街へと向かった。

当時、大坂では相撲興業が行なわれていて、市中には力士たち出てきていた。
その力士達が、北新地へ向かっている芹沢鴨一行と蜆橋ですれ違った際、力士の一人が足を踏んだとか芹沢鴨の鞘に振れたとかで乱闘になったという。
腹痛だった斎藤一はどういう思いでこの状況を見ていたのだろうか。
もしくはさっさと済ませたく積極的に乱闘に参加したかもしれない。

その後、一行は北新地の料亭の住吉楼にてやっと斎藤を休ませることができた。
その住吉楼に乱闘になった部屋の力士たちが八角棒を手に押しかけてきた。
浪士組は刀で応戦、力士たちは3人即死、14人が負傷したとされている。
一方の浪士組は負傷の具合は不明だが死亡者はいなかった。

その後浪士組は大阪力士側と和解し、祇園で相撲興行を行った際に、浪士組は紋付き袴で警備を担当した。

淀川の船上で斎藤一が腹痛を起こさなければ起きなかった事件かもしれない。

現在の京屋跡地

現在は「フロマージュ天満橋店」とその隣の空き地一帯が京屋の敷地だった。
「フロマージュ天満橋店」の店頭の壁に以下の碑文が貼られている。
「この付近、大坂八軒屋 船宿 京屋忠兵衛跡 幕末期 新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司らの常宿だった」

船宿「京屋」跡地
すぐ近くに八軒屋船着き場跡の碑が立っている。
八軒屋船着き場跡
八軒屋船着き場跡

京屋跡地所在地

〒540-0032 大阪府大阪市中央区天満橋京町3-6周辺

参考文献



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