沖田総司終焉の地「今戸神社」|東京都台東区浅草

浅草今戸神社・沖田総司
浅草今戸神社
 江戸文化発祥の地、お江戸は浅草、招き猫。

今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐をしたときに、京都の石清水八幡宮をこの地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。

また招き猫発祥の地自称しているが文献などによる根拠はないとされている。

現在では縁結びとして有名で女性の行列が絶えない。浅草七福神の一柱で福禄寿を祭っている。

今戸神社と沖田総司

今戸神社に行くと「沖田総司終焉の地」の看板や幟がまず目に入る。沖田総司の墓所は六本木の専称寺にあるが、終焉の地に関しては、ここ今戸神社と千駄ヶ谷の二通りの説がある。

沖田総司終焉の地
沖田総司終焉の地

当社の主張の根拠としては

・沖田の主治医であった松本良純が今戸神社の敷地内に仮住まいしていた

・永倉新八が「沖田は松本宅で死亡」、と書き残している

ただし松本良純は戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府軍に従軍、奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏したのち明治二年(1869)に赦免されるまで投獄されていた。

そのため東京の今戸神社に滞在していたのはわずかで、総司を診る時間もほぼなかったのではないか。

 また永倉新八も品川で近藤と袂を分かって以来、靖兵隊を結成し、会津藩が降伏するまで北関東にて徹底抗戦していたため、総司の死亡に関しては、戊辰戦争終了後に伝聞または憶測の可能性が高い。

現在では千駄ヶ谷の植木屋の柴田平五郎宅の納屋または離れにて死亡したというのが定説である。

沖田総司は近藤勇の門人。奥州白川阿部侯の臣。明治元年辰年丗日、東京千駄ヶ谷に於て病死。(「吉野家文書」吉野泰三)

 ただ総司が京都から戻ってきて柴田宅へ移るまで主治医である松本と行動を共にしていた可能性は大いにあり、今戸神社敷地内に滞在していたかもしれない。

新選組一番隊・組長 沖田総司 慶応四年五月三十日(1868年7月19日)没 

享年24歳*

戒名:「賢光院仁誉明道居士」

*享年については諸説あり、24歳、25歳、27歳。いずれにせよ早すぎる死であった。

墓は港区六本木の専称寺にある・

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