西本願寺|新選組第二の屯所|京都府

池田屋事件の後、隊士が増え、いよいよ民家では収まりきらなくなった新選組は、慶応元年三月(1865年)屯所を八木・前川邸から六条の西本願寺に移す。山南敬助が切腹した翌月の事だった。

京都・西本願寺とは

西本願寺
西本願寺

新選組第二の屯所として知られる西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山。

正式名称を「龍谷山本願寺」

「西本願寺」、市井の人々からは親しみをこめて「お西さん」と呼ばれる。

平成6年(1994年)に世界文化遺産に登録される。

歴史的な建物が多く、各所に建物の案内板が設置されているのだが、現在は不明だが、私が訪問した時はこの案内板に「新選組」の「し」の字もなかった。新選組の屯所にされたことがよほどの黒歴史だったのか、それとも同寺の長い歴史からすれば新選組が滞在した期間等些末なことだとでも言いたいのか、不自然なくらい新選組の存在が消されていた。

新選組と西本願寺

重文・太鼓楼

同寺には、浄土真宗の僧侶が全国から集まり集会を行うための北集会所という大規模な部屋があったため、そこを借り受けた。西本願寺が選ばれたのは場所だけの問題ではなく、西本願寺は以前から尊攘派と強いつながりを持っおり、禁門の変の際には長州藩士達をかくまうなどしていた。そのため目を光らせるという意味で西本願寺に乗り込んだといった方が正しいのではないか。

慶応三年六月二十二日、新選組が不動村の屯所に移動するまで約三年間ここに滞在した。

西本願寺侍臣であった西村兼文は明治22年(1889年)、『新撰組始末記』(または壬生浪士始末記)を記し、現代の私たちに当時の新選組の有様を伝えてくれる貴重な資料を残してくれた。西村は尊攘派ということで新選組に対しては一方向からの記述にはなるがそれでも貴重である。

太鼓楼の案内板

現在も残る新選組の跡

重要文化財:太鼓楼

江戸時代には周囲に時刻を告げる合図となっていた太鼓楼。新撰組による刀傷が、今も残っていると伝えられているが確認することはできない。
江戸時代から現存しており新選組と同時代を過ごした貴重な建物だが、太鼓楼の説明版には新選組の文字は一切出てこない。
阿弥陀堂、御影堂なども新選組の面影は残っていない。しかし境内で大砲の調練を行ったというから隊士が阿弥陀堂や御影堂の長い長い廊下を行き来していたかもしれない。



阿弥本堂

阿弥陀堂廊下

西本願寺滞在中にあった主な出来事

土方歳三、隊士募集に江戸へ行く

屯所移転により隊員増強が可能になった新選組は江戸へ新隊士募集へ行く。土方歳三を始め、伊東甲子太郎、斎藤一が同行した。池田屋の負傷によって江戸で治療していた藤堂平助も合流。壬生義士伝で有名な吉村貫一郎を始め54名もの新隊士を獲得し京へ戻ってきた。江戸での隊士募集と同時に大阪や京都でも募集をしていた為、70名ほどだった新選組は130名までに増えた。
大幅に増えた人員の為新選組は組織を作り変える。(組織編制)
局長:近藤勇、参謀:伊東甲子太郎、副長:土方歳三
さらに副長助勤をリーダーとした10組を作成。リーダーの下には福リーダーとして「伍長」が2名づつ配置された。
またある分野に秀でた隊士を「師範」と定め、隊士たちの強化を実施する、現在でいう教育制度も充実させた。

撃剣師範:永倉新八、沖田総司、斎藤一、吉村貫一郎、池田小三郎、田中寅三、新井忠雄
柔術師範:篠原秦之進、松原忠司、柳田三二郎
馬術師範:安富才助
槍術師範:谷三十郎
文学師範:伊東甲子太郎、武田観柳斎、司馬良作、尾形俊太郎、毛内有之助

ユニークなのは武術だけではなく文学にも師範を定めたところ。町民や農民が多かった新選組であったから武士になるには学も必要と感じたのだろうか。

将軍・家茂長州征伐の為上京

第二次長州征伐開始。新選組も谷三十郎を始め約20名の隊士を大阪に出張させる。下町寺の万福寺というところに三か月間駐屯する。ここで大いに存在冠を見せたようで新選組大阪屯所、と呼ばれることもある。

幕府の御典医・松本良順による健康診断

慶応元年(1865年)に幕府典医・松本良順が、新選組全隊士約170名に対して健康診断を行った。
診断結果を見ると、70名以上が病気にかかっていたようで、1.感冒(風邪)、2.食傷(食あたり)、梅毒。心臓病や肺結核といった重篤な患者も1人ずついた。肺結核と診断されたのはおそらく沖田総司であろう。2名以外は松本の治療により快癒したらしい。

死番制始まる

市中見回りの際は四人一組になる。あらかじめ順番を決めておき、一番を「死番」と呼んだ。死番となった者はその日怪しいと思われる場所に最初に入る役割である。次の日は2番目が死番となり、前日の死番は4番目に下がる。これをぐるぐる回していく。組に休暇の概念があったのかわからないが、現代のように休暇の概念がなければ4日に1回は死番が回ってくる。毎回毎回死ぬ思いをするようなことはないであろうがそれにしても結構な頻度で回ってくる。

川島勝司処刑される

川島は新選組結成直後に副長助勤として入隊した古参の隊士。棒術の達人で、池田屋事件では土方歳三の隊に加わり17両をもらっている。 禁門の変の際には探索に出かけ、報告書を作成している。その後、伍長に就任したが、臆病な性格という理由で役職を外され、除隊された。新選組は基本脱退禁止だが、不要とみなされたものは首にすることができたのだろう。生活に困った川島は、大坂または京都の商家で新選組の名をかたり金策を行う。それが新選組にばれ、富山弥兵衛らにとらえられ、丸坊主にされるという辱めを受けた後、処刑され二条河原に放置された。

河合喜三郎切腹 

慶応二年二月二日、河合は隊費から五〇両が不足してい ることに気がつく。 原因は何であれ、金銭の管理を任されていた自分の責任となることを恐れた河合は表ざたにはせず、実家からお金を借りて穴埋めを試みる。
しかしタイミングが悪いことに土方からまとまった金の支出が命じられるが、現在の手元にある公用金では応えられず、事件が明るみに出てしまった。河合は公用金横領の罪で謹慎を命じられる。河合は実家に金子を頼んでいるのでその金が届くまで処分は待ってほしいと懇願するがその夜、斬首が決定してしまう。

谷三十郎死亡

慶応二年四月一日()「谷三十郎故なくして頓死す。」
谷さん兄弟の長男、三十郎は槍の使い手。新選組・槍術師範であり七番組の組長でもあった。三兄弟の末っ子は近藤勇の養子となり近藤周平と名乗り、うまくいけば近藤家を継ぐ予定であった。そんな中の急死。新選組血風録、壬生義士伝では斎藤一が暗殺したと描かれているがあくまで創作で真実はわかっていない。

三条制札事件

慶応二年九月十二日(1866年)
幕末当時、三条大橋の西詰には制札場があった。制札場とは府代官や領主が掟、条目、禁令を板又は紙に記して掲示し、住民に法令の周知徹底を促した場である。ここに掲げられている「長州は朝敵である」という制札が何度も引き抜かれ三条大橋のしたに捨てられるという事件が発生した。これを重く見た幕府側は新選組に札の警護を命じ、札を抜きに現れた土佐藩士らと新選組の間で捕縛騒動があった事件。原田左之助、大石鍬次郎らが出動した。

永倉新八島原居続け

慶応三年正月元旦
伊東甲子太郎は永倉新八、斎藤一らを誘い島原の角谷へ繰り出す。20名ほど参加し大宴会となった。
新選組の隊規では脱走を防ぐため門限が決められており、門限を破ったものには処罰が下る。特に役職者が遅れた場合は切腹となっていた。
門限が近づくにつれ隊士達は一人、また一人と帰っていく。
永倉、斎藤も酔っていたとは言いそこに気が付き伊東に、帰ろうと提案する。しかし伊東は後のことは自分が引き受けるので気にせず飲もうと二人を帰さない。
二日目は開き直りどうせもう切腹だからとなおも居座る。
三日目も同様
四日目にして近藤からの使いがやってきてよろよろ帰ると近藤・土方は大激怒。
伊東、永倉、斎藤は謹慎を言い渡される。
永倉は以前近藤の思い上がりを会津の松平候に直訴していた。
このことを根に持っていた近藤は今度こそ永倉を切腹させようと会津へ出かけようとする。しかし土方は永倉だけを罰するのは不公平だ、罰するのであれば三名とも罰しなければ。しかし三名とも古参の隊士で隊内での信頼も厚い、と説得され近藤はしぶしぶあきらめる。
伊東、斎藤は三日で謹慎を説かれ、永倉は六日で赦された。

伊東派脱退

慶応三年三月二十日(1867年)伊東甲子太郎は新選組を尊王攘夷の組織とするべく動いていたが、近藤勇はじめ幕府よりの隊士が多く、伊東は新選組の尊王攘夷への転換はあきらめ、隊を脱することを決める。

武田観柳斎暗殺

慶応三年六月二十二日(1867年)京都郊外の鴨川銭取橋(竹田街道)にて暗殺された。
暗殺理由は諸説あるが、甲州流軍学による調練を担当した武田だが、幕府のフランス式にとってかわられると居場所がなくなった。また以前から上の者にはこびへつらい下の者には横柄な態度をとる。新選組美男5人衆の一人馬越三郎にしつこく男色を迫り、困った馬越は土方に訴えでる、などとにかく組内での評判が悪かった。居場所をなくした武田は除隊を願い出て新選組を除隊するが密かに薩摩にすり寄り、組の怒りを買い暗殺されたといわれている。
一部創作では斎藤一により暗殺ともされているが斎藤は当時、伊東らの御霊衛士に参加していた為不可能ではなかったか。谷三十郎の死と、武田暗殺が混同されているようにおもわれる。

新選組ついに幕臣に

慶応三年六月二十二日(1867年)新選組隊士全員が幕臣として取り立てられることが決定。

しかしこれに反対した隊士達がいた。茨木司ら10名の伊東が新選組に残していった伊東派だ。もともと武士だった彼らは幕府に仕えることは脱藩したところの藩主と2君に仕えることになり武士の矜持が立たないという。そこで10名は会津藩に訴え出て、基本脱退はゆるされない新選組からの脱退を申し出た。新選組から近藤らが金戒光明寺に出向いて話し合いを持ったが彼らの決意は固い。しかし近藤たちも三月に異例という形で伊東派の脱退を許している。これ以上脱退を許すと隊規が機能しなくなるので許すわけにはいかない。そこで10名は茨木司ら4名が隊に残る代わりに6名は脱退させてほしいと願いで、譲歩案に近藤らも賛成する。
 これでようやく落ち着いたと安堵していると、残留組四人は切腹してしまう。一説には大石鍬次郎らが暗殺したともあるが創作が定説となっている。

同日、新選組は西本願寺が用意した不動村の屯所へ引っ越す。ここに西本願寺と新選組の関係は終了する。

所在地

〒600-8501京都市下京区堀川通花屋町下る本願寺門前町

TEL 075‐371‐5181 FAX 075‐371‐5310

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