茨城県にある新選組ゆかりの地|芹沢鴨から土方歳三まで意外と多い

茨城県にある新選組ゆかりの地|芹沢鴨から土方歳三まで

京都を中心に活躍した新選組。

現在の東京都、京都府、福島県、北海道は新選組ゆかりの地が多数あることは有名である。

しかし意外にも茨城県にも新選組ゆかりの地は多数ある。

新選組初代局長・芹沢鴨ゆかりの地

芹沢鴨の出自は諸説あり、いまだに定まっていない。

説の1つである茨城県行方市には芹沢鴨の生家と、芹沢家の菩提寺である法眼寺がある。

また平間重助も同じ地方出身で、若かりし頃の芹沢鴨と平間重助が学んだ曽される玉造郷学校跡地もある。

新選組副長・土方歳三ゆかりの地

現在の東京都日野市で生まれ育った土方歳三は、茨城県とは無縁のように思われる。
しかし土方歳三ゆかりの地は茨城県に意外と多い。
流山で近藤勇と別れた土方は近藤の助命嘆願の為に江戸へ戻る。
その後千葉県へ行き、会津へ行くことを決める。
千葉県から会津へは茨城県を通って北上したので、土方歳三の足跡が残っているのだ。


新選組最期の局長・相馬主計ゆかりの地

相馬主計は常陸国笠間藩藩士・船橋平八郎義方の子として生まれた。
現在の笠間市である。
生まれたのは天保六年(1835年)とも天保十四年(1843年)ともいわれるが詳細は不明である。
新選組に入隊したのは不明だが、鳥羽伏見の戦いの前にはすでに名があった。
京都から北海道・箱館まで戦い抜いた数少ない隊士の一人である。
新選組の局長だった土方歳三が明治二年五月十一日(1869年6月20日)に一本関門で戦死すると、相馬主計が新選組局長に就任した。
就任は十三日とも十五日ともいわれているが、十五日に全面降伏しているので、いずれにせよ数日の局長であった。
しかしまぎれもなく新選組最期の局長である。
相馬の生家がどこにあったのか詳しくはわかっていないが、彼が仕えた笠間藩の城址は残っている。

新選組参謀・伊東甲子太郎ゆかりの地

新選組参謀・伊東甲子太郎とその弟で九番隊組長・三樹三郎は志筑藩で生まれ育った。
志筑藩は現在の茨城県かすみがうら市である。
また兄の伊東甲子太郎は京都で死んだが、生き延びた弟の三木三郎の方は、油小路の変以降、近藤勇の命を狙ったり、永倉新八と東京ですれ違ってみたり、赤報隊となってみたりなんやかんやいろいろあったが結局は茨城に戻り現在の茨城県石岡市で余生を過ごした。
そのため三樹三郎の墓は石岡にある。

新選組ゆかりの地・地図


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