土方歳三の戦歴を追う|江戸から宇都宮城まで

近藤救出に失敗したのちの土方歳三の足取りを追う

山梨戦争に敗れた新選組は流山を経由して会津に向かっていた。
しかし近藤が捕らえられたため、近藤の助命工作を行いために土方は江戸へ舞い戻る。
ここで新選組と土方を別行動をとることとなった。新選組本体はそのまま会津へと向かう。

土方歳三は江戸からどのように会津へ至ったのだろうか。
島田魁日記にその足取りが詳しく書かれている。


慶養寺

島田魁は近藤が捕らえられたのち、軍用の金を集めて江戸・浅草の今戸へ来た。当時の浅草・今戸は幕臣たちの屋敷が多く並んでいた。
島田魁は今戸で土方と合流する。
土方と島田は秋月右京亮種樹の屋敷に10日ほど滞在した。
土方と榎本は陸軍は陸路で、海軍は軍艦で江戸を離れることを決め。四月十日の夜に支度をし、今戸の慶養寺へと移る。

水海道河岸跡


四月十一日、江戸城が官軍に引き渡される。
同日 旧幕府軍市川を通り千葉の鴻池で集結する。

旧幕府軍は慶養寺に集まる。
鴻池から土方歳三・大鳥圭介らは陸軍を率い茨城県水海道へと移動する。
水海道の船着き場から船に乗り川から下妻へと移動する。

土方歳三がここから下妻へと向かった
水海道河岸跡地・ここから下妻へと向かった

土方公と秋月公は第一大隊、回天隊、新官隊を引いて水街(海)道より走土(宗道)村に至った。
 軍監の井上清之進、峯松之介、倉田巴(本名は立 霞三郎尚文) 私の四人は東照神君の白旗を翻して 勢揃いし、これより常(上)州下妻井上辰若丸の書を送ると、すぐに若丸殿がこちらの陣門にて、同志となった。(島田魁日記)」


下妻陣屋跡

下妻陣屋の土塁が残る城山稲荷神社


秋月公は精兵四百人あまりをもって下妻陣屋を囲み(島田魁日記)」
秋月が兵をもって囲み兵糧を出させる。下妻陣屋跡は現在下妻第一高校となっており面影は残っていない。高校の東側に位置する城山稲荷神社の敷地内には土塁と思われる跡が残っている。

【所在地】〒304-0067 茨城県下妻市(下妻第一高校の東側)

下館城跡

土方歳三が攻めた下館城
下館城跡


土方公は二百五十人あまりを引いて同じく下館城に向か 同十七日明け方、城主の石川若狭守の城下にいき、すぐに兵隊をことごとく配置し、大手門の大砲を備え裏門へも同様に備えをもうけ、この とき土方公は大手通りに、軍監井上清之 私の三人が応援のため入城し、家老と 話した。すぐさまと一名が汚し本営にきた。 
石川若狭守の家中は一同徳川家の同志 であることを言上した。 
それから兵糧弾薬を調えて 宇都宮へ向かう。(島田魁日記)」

四月十八日 下館から宇都宮へ向かう。結城の兵士と交戦。
四月十九日 宇都宮城下へ到着。


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