土方歳三の戦歴を追う|宇都宮から会津へ

 燃えよ剣で岡田准一さんが演じる土方歳三が話題になっているが、新選組は京都だけで活躍したわけではない。

近藤と別れた土方は新選組隊士6名と共に現在の千葉県市川市国府台で旧幕府軍と合流。

旧幕府軍は大鳥圭介を総大将として前軍・中軍・後軍の3舞台に編成された。

土方歳三は会津藩士・秋月登之介を司令官とする前軍の参謀に選ばれる。

前軍・後軍の司令官は大鳥圭介が務めた。

前軍は新政府軍に奪われた宇都宮城を奪還するため水戸街道を北上する。

中軍・後軍は日光東照宮を目指した。

江戸から宇都宮にたどり着くまでの土方歳三の戦績はこちら↓↓

宇都宮城の戦い

慶応四年閏四月十九日(1868年6月9日)水戸街道を経て現在の栃木県に入った土方歳三率いる旧幕府前軍は早朝に宇都宮城を攻める。

戦いは夕方まで続いたものの、わずか一日で落城させる。


同十九日宇都宮城下近ク迄押寄セケレバ、敵兵防御シ烈布発砲ス、味方乗機ニ速ニ鯨声ヲ挙ゲ城下二逼ル。放火烈布大小砲打チ立於此城の内外尽ク火ト成リ、敵狼狽シテ城ヲ捨テ逃去ル。(『島田魁日記』)

「土方歳三ハ歩兵ノ退クヲ見テ、進メ進メト令シツツ逃ル者一人ヲ斬倒ス」(『桑名藩

戦記』)。

土方は進め進めと命じ、敵前逃亡しようとする兵士を切捨てた。

これを三旧幕府軍の兵士は恐れをなし敵へ突っ込んでいったといわれている。

この戦争は午前十時に始まり午後四時には落城した。

せっかく落とした城だったが、撤退する新政府軍は宇都宮城に火をかけ、建物はほとんど焼失したため、旧幕府軍は、近くの満福寺に宿泊した。

翌日大鳥圭介の隊も合流。

二十二日の午前四時ごろ、大鳥隊は壬生城攻略に出かけ土方隊は宇都宮城を守備していたが、大鳥隊は敗戦。

午前十時には宇都宮城に戻ってきてしまう。

二荒玉神社

二十三日に、戦に飼った新政府軍は勢いづき壬生口番所に居た旧幕府軍と交戦、さらに宇都宮城にいた旧幕府軍に攻撃を仕掛ける。

当時、土方は宇都宮城の北に位置する二荒玉神社に陣を置き戦っていたが宇都宮城危うしとなり城へと入る。

昼頃、秋月と土方は足に銃弾を受け戦線離脱。

おそらく松が峰門付近で銃弾を受けたと思われる。

旧幕府軍は敗戦し、土方は今市まで運ばれた。

この日、宇都宮城はあえなく新政府軍に奪還され、旧幕府軍は今市方面に敗走。

まだ戦う気力があるものは日光街道から下野街道へと至り会津へ向かった。

今市に到着した土方は、新選組隊士の中島登を日光に向かわせ、日光の警備についていた八王子千人同心の土方勇太郎を呼び寄せた。

勇太郎は同じ土方姓だが親戚ではなく、天然理心流の門徒で友人だった。 

土方は勇太郎に

「思い出しても憐憫の至りだ。あの(宇都宮城攻撃)激戦になった時、従兵の一人が堪え切れなくなって逃げ出そうとしたのを見つけたから、これを手討ちにした。 退却する者は誰でもこうだ。進め進めと号令突貫、ついに城を落としたが、あの一兵卒は実に不憫である。どうかこれでこの日光へ、墓石の一つも建ててくれ」

と眼に涙をためながら金一包を渡したという。

さらに土方は勇太郎に「もう今度はとても帰れそうにない」と言い残し会津へ向かったという。

土方歳三会津へ

負傷した土方歳三は日光街道を北上し会津若松を目指す。

大内宿

大内宿
大内宿

福島県南会津の山中にある大内宿は会津若松と日光今市を結ぶ重要な道の宿場町として栄えた。

現在もかやぶき屋根の建物が並び多くの観光客を集めている。

土方がどの建物に宿泊したのかはわかっていないが間違いなく大内宿を通っている。

大内宿所在地:福島県南会津郡下郷町大内

清水屋旅館

会津へ入った土方歳三は老舗旅館の清水屋と投宿。
宇都宮でも共に戦った旧幕臣の秋月登の介と口論になり枕を投げた。
会津に入っても怪我の為戦えなかった土方は会津に先発していた山口次郎(斎藤一)に新選組の指揮を託す。自身は会津が管理していた東山温泉で湯治をしたと伝わっている。
土方歳三が入ったと伝わる岩風呂
土方歳三が入ったと伝わる岩風呂

天寧寺

天寧寺|会津近藤勇、土方歳三の墓
天寧寺
近藤勇の処刑から4日後に会津に到着した土方はおそらくそこで近藤勇処刑の報を聞いただろう。近藤の遺髪を持っていた土方は松平容保に許しを得て天寧寺に近藤の墓を建てた。
土方および斎藤一、新選組隊士達が手を合わせたに違いない。

土方歳三戦線復帰

温泉でけがを治し美肌を手に入れた土方歳三はついに戦線復帰を果たす。

慶応四年八月十九日(1868年10月4日) 新選組は大鳥圭介の伝習隊、田中源真率いる会津藩兵と共に県境の母成峠の守備に就く。

白河小峰城を落とした新政府軍は会津の隣の藩、二本松藩をも落とし会津に攻め入ってくる。

母成峠の布陣は萩岡に第一台場、中軍山に第二台場、峠の頂上に第三台場をおき、新選組はと伝習隊は中軍山に布陣した。

東軍の兵力は合計800人だったという。

会津藩は二本松街道からの攻撃を想定していたが、新政府軍は濃霧にまぎれ混成軍の背後から攻撃を仕掛けてきた。

その数、数千※。

会津軍は壊滅。

新選組は木下巌、千田兵衛、鈴木錬三郎、小堀誠一郎、漢一朗、加藤定吉ら6人が戦死した 。

※新政府軍の数は諸説あり。3,000とも70,00ともいわれている。

戦死者は新政府軍、会津軍合わせて104名。

新政府軍から敗走した新撰組は猪苗代城(亀が城)まで後退。

土方歳三、斎藤一と会津藩の軍事方との間で軍議が行われた。

土方は松平容保に会うために滝沢本陣へ向かい斎藤率いる新選組は翌八月二十二日(1868年10月7日) 新選組を率いて東山の天寧寺へと出陣した。

結果的に猪苗代城(亀が城)は土方歳三と会津新選組の別れの地となった。

旧滝沢本陣

旧滝沢本陣|土方歳三
旧滝沢本陣
旧滝沢本陣所在地:福島県会津若松市一箕町大字八幡滝沢122

滝沢本陣に入った土方歳三は容保と容保の弟・桑名藩藩主・松平定敬と謁見。
容保は鶴ヶ城籠城戦に向け鶴ヶ城へ戻る。
八月二十三日(1868年10月7日) 土方は同盟の庄内藩に援軍を依頼するため容保の実の弟の桑名藩藩主・松平定敬と共に会津を離れる。
援軍要請は失敗。すでに新政府軍によって囲まれてしまっていた会津へ戻ることはできず、土方は箱館戦争に身を投じることとなる。


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